魔界の絶対君主の極秘潜入と、至高の肩もみ
「……ヨシ。完璧ナ隠匿魔法ダ。コレナラバ、我ガ大魔王ゼアノスデアルトハ、誰一人トシテ気ヅクマイ」
薄暗い『深淵の森』の木立の中。
古びた革の鎧を身に纏い、くたびれたマントを羽織った初老の剣士が、満足げに頷いていた。
彼こそは、魔界の頂点に君臨する大魔王ゼアノス。
先日の遠隔ビデオ通話(絶望の姿見)を一方的に切られた屈辱を晴らすため、そして愛娘ヴァニアを誑絡する忌まわしき青年・ジンの底を暴くため、彼は自らの魔力を極限まで圧縮し、人間の冒険者へと変装して人間界へ降り立ったのである。
「フン。正面カラ力ヲぶツケレバ、我ノ圧倒的ナ力デ一瞬デ消シ飛ンデシマウカラナ。マズハ『客』トシテ潜入シ、ヤツノ弱点ヲ丸裸ニシテヤル……ッ!」
ゼアノスは、渋い声で一人ごちると、森の奥へと歩を進めた。
やがて、開けた空間にぽつんと建つ『お悩み相談所・止まり木』の看板が見えてくる。
庭では、かつて人間界の希望であった勇者レオが、クワを振り上げて満面の笑みで畑を耕し、その横で巨大なフェンリルが腹を出して寝転がっていた。
(……報告ニハアッタガ、実際ニ見ルト何トモ気味ノ悪イ光景ダ。神話ノ魔獣ト人間ノ勇者ガ、同ジ庭デ共存シテイルナドト。ヤハリ、アノ男ノ洗脳能力ハ侮レヌ)
ゼアノスは油断なく周囲を警戒しながら、小屋の入り口へと近づいた。
「いらっしゃいませー。お悩み相談所へようこそ。おや、新規のお客さんですか?」
小屋から出てきたのは、麦わら帽子を被り、首にタオルを巻いた青年――ジンであった。
魔界の絶対君主を前にしても、その表情には一切の畏怖の念がなく、まるで近所のおじさんに話しかけるような自然体だ。
「……アア。我、イヤ俺ハ、通リスガリノしがない冒険者……『ゼフ』ダ。少シ道ニ迷ッテナ。コノ小屋デ休マセテモラエナイカト思ッテナ」
ゼアノスは、わざとらしいほどに疲れた冒険者の演技をした。
魔力を完全に遮断しているため、この青年がどれほどの鑑定スキルを持っていようと、自分の正体を見破ることは不可能である。
そう、ゼアノスは確信していた。
だが。
ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】スキルは、ゼアノスが発する微細な「隠しきれない威厳」と「言葉の裏にある感情の機微」を、容赦なく脳内で正確に翻訳してしまったのである。
『フフフ、完璧な変装だ! これで俺がガリウスの社長であり、ヴァニアの父親である大魔王だとは気づくまい! さあ、俺をボロ小屋の中に案内するがいい! お前の素性を徹底的に調査してやる!』
「…………」
ジンは、一瞬だけ同情に満ちた目でゼアノスを見つめた。
(なるほど。このおじさん、ガリウスさんたちの『社長』か。わざわざ変装してまで、部下や娘が通っている場所の視察に来たんだな。心配性で、不器用な人なんだろうなぁ)
ジンは、すべてを察した上で、あえて「気づかないフリ」をしてあげることにした。それが、大人の対応というものだ。
「ゼフさんですね。長旅、お疲れ様です。どうぞ、そこの縁側に座ってください。冷たい麦茶を出しますね」
「……フ、フン。スマンナ」
ゼアノスは、ジンの隙を探りながら縁側に腰を下ろした。
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(…………ッッ!? ば、馬鹿なッ!! なぜ、あれほどの存在がここに!?)
小屋の奥からお茶請けを持ってこようとしたルミナは、縁側に座る「初老の冒険者」を見た瞬間、全身の血液が沸騰するような戦慄を覚えた。
彼女は王国最高位の元・暗殺者である。ゼアノスがいくら魔力を隠蔽しようとも、その肉体が無意識に放つ『宇宙規模の死のプレッシャー』を、彼女の鋭敏な感覚は完全に捉えていた。
(だ、大魔王ゼアノス……! 魔界の頂点が、人間の姿に偽装して自らジン様の元へ……!? し、しかし、ジン様は一切動じることなく、あまつさえあの化け物に麦茶を差し出している……!)
「ルミナ、ごめん。今日焼いたクッキー、お客さんに出してくれる?」
「ひぃッ!? は、はいぃぃっ! 直ちに、魔界の王……いえ、ゼフ様に供物を……ッ!」
ルミナはガタガタと震えながら、クッキーの皿をゼアノスの前に置いた。
「ホウ、クッキーカ。……(クンクン)……ム!?」
『なんだこの良い匂いは! 魔界の最高級スイーツにも劣らない香ばしさ……いや、騙されるな! これは俺を骨抜きにするための罠(毒)かもしれない!』
ゼアノスが心の中で警戒していると、ジンがふわりと微笑みながら彼の背後に回った。
「ゼフさん、ものすごく肩が張ってますね。重い剣をずっと振るってるからでしょう。よければ、少し揉みましょうか?」
「……ナニ?」
ゼアノスは内心で嘲笑した。
(フン、愚カ者メ! 我ガ肉体ハ、鋼鉄スラム微塵ニ砕ク『絶対魔力障壁』ニ覆ワレテイルノダ! 人間ノ指ナド、触レタ瞬間ニ弾キ飛バシテクレルワ!)
「遠慮ハイラン。ヤッテミルガイイ」
ゼアノスは、ジンが自分の硬すぎる肩に触れて絶望する顔を想像し、薄く笑った。
「じゃあ、失礼しますね。……よいしょっと」
グッ。
ジンは、一切の魔力を持たないただの素手で、ゼアノスの首の付け根に親指を押し込んだ。
その瞬間。
ゼアノスが誇る『絶対魔力障壁』が、ジンの指先によって、まるで水風船が割れるように「パリンッ」と音を立てて消滅した。
ジンの「ただの指圧」は、魔界の絶対君主の僧帽筋の最も奥深く、千年分の疲労が蓄積した『コリの芯』へと、正確無比に到達したのである。
「ギョォォォォォォォォォォォォッ!!??」
大魔王ゼアノスの口から、森の木々を揺るがすほどの、魔獣のような絶叫が漏れた。
「ヒィィッ!?」
ルミナが恐怖で耳を塞ぐ。
『痛イイタイイタイイタイッ!! なんだこれッ!? 俺の絶対障壁が紙屑みたいに突破された!? しかも、指が、指がめっちゃ深いところまで食い込んで……ああッ!! そ、そこ……そこアカンッ!!』
「やっぱり、相当お疲れですね。背中から腰にかけて、筋肉がバッキバキに固まってますよ。デスクワーク(玉座)に座りっぱなしだと、こうなっちゃうんです。はい、少し強めに押しますよ」
「アギャァァァァッ!! 待テ、待テ人間……アッ、アアァァァ……!!」
『痛いのに……痛いのにめちゃくちゃ気持ちいいぃぃぃっ!! 何千年も溜まってた肩の重りが、嘘みたいに溶けていくぅぅっ! この人間、ゴッドハンドかよぉぉぉっ!』
ゼアノスは、初老の冒険者の姿のまま、縁側の上でスライムのようにデロデロに溶け始めた。
目はトロンと半開きになり、口からはだらしなく涎が垂れている。魔界の絶対君主としての威厳など、すでに宇宙の彼方へ消え去っていた。
▼▼▼
「…………本日、三錠目」
ボロ小屋の柱の陰で、ルミナは静かに胃薬を取り出し、水なしでボリボリと咀嚼した。
ルミナの目には、今の光景が『この世の終わりの儀式』にしか見えなかった。
大魔王の放つ絶対的な防御結界を、ジンは無造作な一撫でで完全に粉砕した。そして、大魔王の肉体を物理的に支配し、あまつさえ強烈な『快楽(?)』を与えることで、その精神構造すらも液状化させてしまったのだ。
(もはや、戦いにすらなっていない。ジン様は、大魔王が自ら懐に飛び込んでくることすら計算ずくで、わざと無防備に迎え入れ……そして、この至高の『物理的支配』で、魔界の王の魂を完全に骨抜きにされている……ッ!)
「はい、お疲れ様でした。これで少しは体が軽くなったと思いますよ」
「ハァ……ハァ……アァ……」
ゼアノスは、肩で息をしながら、ゆっくりと身を起こした。
信じられない。あれほど重かった体が、羽のように軽い。魔界で千年玉座に座り続けて凝り固まった疲労が、完全に消え去っているのだ。
「……ニ、人間ヨ。貴様、一体何者ダ……。コノ我ノ、イヤ、俺ノ肉体ヲココマデ……」
『すげぇ……。こいつ、マジですげぇ……。娘が懐くのも無理ねぇわ……』
完全に毒気を抜かれた大魔王に、ジンは温かい麦茶とクッキーの皿を勧めた。
「まあまあ、仕事の疲れは誰にでもあるものです。クッキー、甘くて美味しいですよ。ヴァニアちゃんもよく食べてくれます」
「……ム」
ゼアノスは、震える手でクッキーをつまみ、口に運んだ。
サクッ。
「…………ッ!!」
『美味いぃぃぃっ!? なにこれ、俺の魔界の専属シェフが作る千万円のケーキより美味いんだけど!? しかも、この麦茶……疲れた体に染み渡るぅぅっ!』
ゼアノスは、無言のまま、猛烈な勢いでクッキーを貪り、麦茶を飲み干した。
「ハハハ、食べっぷりがいいですね。またいつでも休みに来てください。ゼフさんみたいに、部下や家族のために一生懸命働いてる『お父さん』は、たまには息抜きが必要ですから」
ジンが優しく微笑みかけると、ゼアノスの心臓が、大きくドクンと鳴った。
『……お父さん……。そうか、俺は、魔界の王である前に、ヴァニアの父親だったんだ……。この人間は、俺のそんな隠された重圧まで理解してくれているのか……?』
ゼアノスは、ジンの温かい眼差しに、危うく涙をこぼしそうになった。
「……フン。今日ノトコロハ、コノ変デアキラメテヤル」
『やばい、これ以上ここにいたら、俺、本気でこの人間のこと好きになっちゃう……! 今日は一旦帰って、頭を冷やそう!』
ゼアノスは、照れ隠しのように顔を背け、立ち上がった。
「ソノクッキー……美味カッタゾ。マタ、近ウチニ『客』トシテ来テヤルカラナ。……待ッテイロ!」
大魔王ゼアノス(変装中)は、マントを翻し、森の奥へと足早に去っていった。
その後ろ姿は、来た時のような殺気に満ちたものではなく、どこか足取り軽く、ウキウキしているようにすら見えた。
「はい、お待ちしてまーす」
ジンがのんきに手を振る背後で、ルミナは「……大魔王が、ジン様の手によって『ツンデレの常連客』にジョブチェンジさせられました……」と呟きながら、白目を剥いて気絶したのであった。




