魔界の四天王は中間管理職の悲哀に咽び泣く
あの日、神話級の竜王が飛び去ってから数日が経過した。
「ジン様、本日の『霊薬(※ただのハーブティー)』の煮出し作業、完了いたしました!」
ボロ小屋の清掃を終えたルミナが、ビシッと背筋を伸ばして報告してくる。
彼女はあの日以来、自ら『お悩み相談所』の受付嬢兼、俺の専属メイドとして住み込みで働くようになった。
エルフ特有の透き通るような美貌を持つ彼女が、なぜか俺を「魔王様」や「ジン様」と呼び、異様なまでの忠誠を誓っている理由はよくわからない。
ただ、人間不信の俺にとって、裏表なく(むしろ異常なほど過大評価して)接してくれる彼女の存在は、思いのほか居心地が良かった。
「ありがとう、ルミナ。そんなに急がなくてもいいよ。どうせお客さんなんて滅多に来ないし」
「滅相もございません! ジン様の神算鬼謀、いついかなる時でも対応できるよう、私は万全の準備を整えておく所存です!」
彼女は真剣な表情で頷く。
相変わらず大げさな子だ。俺はただ、森の入り口でひっそりとスローライフを送りたいだけなのだが。
そんな平和な昼下がりだった。
ゴロゴロゴロゴロ……ッ!!
突如として、雲一つなかった青空がどす黒い瘴気に覆われ始めた。
太陽の光が遮られ、真夜中のような暗闇が森を包み込む。
そして、小屋の前の空間がガラスのようにひび割れたかと思うと、そこから赤黒い雷光と共に『巨大な門』が姿を現した。
「な、なんだ……!?」
俺が驚いて立ち上がると、ルミナは顔面を蒼白にしてへたり込んでいた。
「ま、魔界の……冥門……ッ!? ば、馬鹿な、なぜこんな所に……」
門が重々しい音を立てて開くと、中から圧倒的な絶望のオーラを纏った存在が歩み出てきた。
身長は三メートル近く。背中にはコウモリのような漆黒の翼。
頭にはねじ曲がった二本の角が生え、全身から血の匂いと濃密な魔力を撒き散らしている。
ルミナは全身を激しく痙攣させ、声にならない悲鳴を上げた。
(あ、あれは……魔界軍の最高幹部、四天王筆頭の『殲滅の悪魔』ガリウス……!! かつてたった一晩で聖王国の騎士団を全滅させた、生きる厄災!)
ルミナの目には、世界が終わる光景が見えていた。
竜王に続き、今度は魔界の最高戦力。
もはやこの小屋は、世界を滅ぼすための邪悪なサミット会場と化している。
(ジン様は……ジン様は一体、どれほどの闇を抱えたお方なの……!?)
ルミナが畏怖と戦慄に打ち震える中、殲滅の悪魔ガリウスは、鋭い眼光で俺を睥睨し、地獄の底から響くような声で吼えた。
「我ハ魔界ノ四天王ガ一人……殲滅ノ悪魔ガリウス……!! 人間ヨ、貴様ガコノ地ノ主カ……!!」
大気が震え、周囲の木々が魔力にあてられて枯れていく。
だが、俺の【全言語翻訳(Lv.MAX)】にかかれば、彼が発している真の「感情の機微」と「言葉の意味」は、こんな風に変換されて脳内に直接響いてきた。
『すいませぇぇん! ここ、悩み聞いてくれるってマジですかぁぁ!? もう俺、限界なんですよぉぉぉッ!!』
「…………えっ?」
『聞いてくださいよ! 魔王様が「来週までに人間の王都落としてこい」とか無茶振りしてくるんですけど、こっちの予算も人員もカツカツなんですよ!? 稟議書出しても全然通らないし、下級悪魔たちは「残業代出ないなら働きません」って労働組合作りやがるし! 板挟みで毎日胃がキリキリしててぇぇぇっ!』
「あー……」
俺は、目の前で禍々しいオーラを放ちながら(脳内では大号泣しながら)叫ぶ大悪魔を見て、深く同情した。
なるほど。魔界も組織である以上、中間管理職は辛いのだ。
「とりあえず、ガリウスさんと言いましたね。立ったままでも何ですから、そこの丸太に座ってください。温かいお茶、出しますから」
俺は極めてフラットな声でそう言い、カモミールティーを淹れ始めた。
「……ハ?」
ガリウスは拍子抜けしたように口を半開きにした。
『え、マジで? この恐ろしい姿を見て逃げない人間とか初めてなんだけど。え、めっちゃいい人? ていうかお茶くれるの?』
「ルミナ、ごめん。そこにあるクッキーの瓶、取ってくれる?」
「ヒッ!? は、はいぃぃぃッ! ど、毒見は済ませておりますぅぅッ!」
狼狽するルミナからクッキーを受け取り、俺はガリウスの前に差し出した。
ガリウスは恐る恐る丸太に腰を下ろし、小さなティーカップを巨大な爪の生えた手で器用につまみ、ズズッ……と啜った。
「…………!!」
『うわぁぁ……あったけぇ……。胃の粘膜に優しいぃ……。ここ数百年、血と泥水しか飲んでなかったから、五臓六腑に染み渡るわぁ……』
目からポロポロと血の涙(※本人は感動の涙のつもり)を流すガリウス。
「で、上司の無茶振りと部下の突き上げで悩んでるんですね」
「ナゼ、ソレヲ……!?」
『なんで俺の悩みがわかるの!? この人間、エスパー!?』
「顔を見ればわかりますよ。すごく疲れた顔をしてます。それで、他にも悩みがあるって顔ですね?」
俺が優しく尋ねると、ガリウスは肩を震わせ、ついに両手で顔を覆って慟哭し始めた。
「人間ヨ……我ハ、我ハ……ッ!」
『俺……年頃の娘がいるんですけどぉ……! 最近全然口きいてくれなくてぇ……! こないだなんて「パパ、血の匂いがして臭い。一緒に洗濯しないで」って言われたんですよぉぉぉッ! 俺、家族のために毎日人間殺して頑張って働いてるのにぃぃぃっ!』
それは辛い。全国のお父さんが通る道とはいえ、悪魔でも同じ悩みを持つとは。
「なるほど。それは悲しいですね。でも、お嬢さんの気持ちも少しわかりますよ。仕事の匂いを家に持ち帰るのは、年頃の女の子には刺激が強すぎます」
「……ム?」
『え、俺が悪いの?』
「ええ。家族のために働くのは立派ですが、お嬢さんが求めているのは『強いパパ』ではなく、『清潔で優しいパパ』なのかもしれません。このハーブ石鹸を持っていってください。血の匂いも落ちますし、ラベンダーの良い香りがします」
俺は手作りの石鹸を紙に包んで渡した。
「それと、プレゼントを渡すときは『これでお前も最強の戦士になれるぞ』みたいな物騒な言葉じゃなくて、シンプルに『いつもありがとう』って伝えるんです。……どうですか?」
ガリウスは受け取った石鹸を見つめ、わなわなと震え始めた。
「貴様……人間ノ分際デ、コノ我ニ……ッ!!」
『お前……天才かよ……ッ!! そっか、俺、娘の気持ち全然考えてなかった……! ありがとう、人間! お前、魔界の心理カウンセラーになれるぞ!!』
ガリウスは立ち上がると、俺に向かって深々と、それはもう綺麗な90度の角度でお辞儀をした。
「人間ヨ、貴様ノ言葉、肝ニ銘ジヨウ。コレハ我カラノ『契約ノ印』ダ。受ケ取レ」
『マジでありがとう! これ、俺の直通の召喚石な! なんかあったらすぐに飛んでくるから、いつでも呼んでくれよな!』
ガリウスがテーブルに置いたのは、ドクン、ドクンと脈打つ、心臓のような形をした赤黒い宝石だった。
「わざわざすみません。ちょっと不気味な置物ですけど、魔除けになりそうですね」
俺が笑って受け取ると、ガリウスは満足そうに頷き、再び冥門をくぐって魔界へと帰っていった。
空を覆っていた瘴気が晴れ、再び平和な木漏れ日が戻ってくる。
「ふぅ。中間管理職も大変だなぁ」
俺が伸びをしていると、背後からドサッという音がした。
「……ルミナ?」
振り返ると、ルミナが口から一筋の泡を吹き、白目を剥いて気絶していた。
▼▼▼
(ああ……王国は、いや、人類は終わりました……)
気絶する直前、ルミナの脳内ではこれ以上ないほどの最悪の忖度が駆け巡っていた。
あの殲滅の悪魔が、人間の前で涙を流し、深々と頭を下げた。
あまつさえ、魔界の軍勢を意のままに操れる『悪魔の心臓(直通の召喚石)』を、何かの貢ぎ物のように差し出していったのだ。
竜王に続き、魔界の四天王までもが、この青年の軍門に降った。
いや、違う。ジンの態度を見るに、彼らは最初からジンの『部下』だったのだ。
「報告だの、予算だの」と悪魔が泣きついていたのは、ジンが裏で指示した「人間界侵略計画」の進捗が遅れていることへの言い訳と謝罪に違いない。
そしてジンは「焦るな。娘(※魔王の暗喩だろうか?)の機嫌をとっておけ」と、余裕の表情で石鹸(※おそらく恐るべき呪いのアイテム)を渡し、悪魔を宥めて帰したのだ。
(神話級の魔物たちを、まるでお使いの子供のように扱う底知れぬカリスマ……! 魔王どころではない、この御方は、世界そのものを支配する『神』……ッ!)
ルミナのジンに対する畏敬の念は、ここに極まった。
同時に、この恐るべき主の「受付嬢」に任命された自分の責任の重さに耐えきれず、彼女の意識は深い闇へと沈んでいったのだった。




