国王の決死なる五体投地と、町内会長への労い
エルディア王国の王城、その最も奥深くにある玉座の間。
かつては栄華と権力の象徴であったその場所は、今や冷たい墓標のような静寂と絶望に支配されていた。
「……行くしかない。我が命と、この王冠と引き換えに、民だけは救ってもらうのだ」
国王アルベルトは、憔悴しきった顔で立ち上がり、重々しい足取りで玉座から降りた。
数万の聖騎士団の壊滅、勇者の消失、そして頼みの綱であった神の使い(天使)の逃亡。
王国の持ち得るすべての手札は、あの『深淵の森』に潜む魔王によって、紙屑のように破り捨てられた。
「陛下! なりませぬ! 一国の王が、自ら邪悪なる魔王の元へ赴くなど……!」
「ならばどうする!? すでに神すらも我々を見捨て、あの男に世界の管理権限を譲渡してしまったのだぞ!」
すがりつく近衛騎士たちを、アルベルトは悲痛な声で怒鳴りつけた。
「私が自らの首を差し出さねば、明日にでもあの恐るべき結界から魔獣の軍勢が溢れ出し、王都は火の海になるだろう。王としての最後の矜持だ。……私と、数名の近衛だけで向かう」
国王の覚悟に、騎士たちは皆、声を出して泣き崩れた。
もはや、奇跡は起こらない。
彼らは、文字通り『生贄』として、最凶の魔王城へと向かうのであった。
▼▼▼
数時間後。
『深淵の森』の入り口に到着したアルベルト国王一行は、馬から降り、震える足で歩みを進めていた。
鬱蒼とした木々の間を抜けると、やがて開けた空間に出る。
そこには、報告にあった通りの「黒い柵」に囲まれたボロ小屋と、その周囲で蠢く恐るべき光景が広がっていた。
「あ、あれは……!」
近衛騎士の一人が、悲鳴を押し殺して指を差す。
庭の土を、かつて人類の希望であった勇者レオが、泥だらけになって耕している。
物干し竿には、王国最高位の『聖光の乙女』クラリスが、フリフリのエプロン姿でシーツを干している。
そして、彼らの背後では、神話の魔獣フェンリルと、歩く大災害アシッド・スライムが、キャッキャと戯れながら日向ぼっこをしていた。
(なんという……なんというおぞましい光景だ……ッ!)
アルベルトは、絶望のあまり眩暈を覚えた。
王国の最高戦力たちが、自我を完全に破壊され、魔王の「農奴」および「メイド」として飼い殺しにされている。
しかも、彼らの顔には満面の笑みが浮かんでいるのだ。これ以上の悪趣味な蹂躙がこの世にあるだろうか。
「ん? あ、お客さんだ! いらっしゃいませー!」
柵の外で硬直しているアルベルトたちに気づき、勇者レオがクワ(聖剣)を振って元気に挨拶をしてきた。
「勇者殿……! ああ、なんという痛ましい姿に……」
アルベルトが涙をこぼした、その時だった。
ギィィ……と、小屋の扉が開き、一人の青年が姿を現した。
「いらっしゃい。うちの相談所に何か御用ですか?」
麦わら帽子を被り、首にタオルを巻き、その帽子のさらに上には、天使が残していった『神使の輪』がフワフワと浮遊している。
青年――ジンであった。
「……ッ!! こ、この男が……真の魔王……!」
ジンの放つ(無自覚な)圧倒的自然体と、頭上の神の輪を見た瞬間。
アルベルト国王は、抗うことすら不可能だと悟った。
彼は近衛騎士たちを制止すると、震える手で自らの頭から豪奢な『王冠』を外し、そのまま地面に両膝をついた。
そして、額を泥にこすりつけるほどの勢いで、完全なる五体投地を行った。
「ははぁーッ!! 偉大なる魔王にして、新世界の支配者であられる御方よ!!」
アルベルトの突然の行動に、ジンは「えっ?」と目を丸くした。
「わ、私はエルディア王国の愚かなる王、アルベルト! この首と、王国全土の支配権を差し出しますゆえ! どうか、どうか民草の命だけはお助けください!!」
地面に顔を押し当てたまま、涙声で哀願する国王。
近衛騎士たちもまた、主君に続いて次々と土下座を始めた。
普通であれば、この厳粛な降伏宣言を受け、勝者は高らかに笑うか、冷酷な裁きを下す場面である。
しかし、ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】スキルは、アルベルトが必死に絞り出した「王としての威厳ある降伏」の裏にある、あまりにも悲痛で人間臭い『本音』を、直接脳内に響かせたのだった。
『嫌だぁぁぁっ! 怖いよぉぉ! 国王なんてやりたくなかったのにぃぃ! 毎日毎日、隣国の顔色を窺って、貴族たちの派閥争いの仲裁をして、挙句の果てにこんな化け物の森に謝罪に来させられて! もう胃に穴が開きそうだよぉぉ! 誰か俺を助けてくれぇぇぇッ!』
「…………」
ジンは、深く、深く同情した。
彼は、平伏する初老の男性をまじまじと見つめた。
(なるほど。この人、どこかの大きな町の『町内会長さん』かな。きっと、村や町の揉め事を全部押し付けられて、ストレスで限界なんだろうな。こんな森の奥まで、わざわざ挨拶に来るなんて……)
ジンは、ため息を一つ吐くと、地面に平伏しているアルベルトの元へ歩み寄った。
「あの、顔を上げてください。そんな、土下座なんてしなくていいですから」
「ひぃッ!? や、焼かれる! 魂を焼かれるぅぅッ!」
「焼きませんって。ほら、泥だらけになっちゃいますよ」
ジンはアルベルトの両肩を優しく掴み、無理やり立ち上がらせた。
そして、泥のついた彼のマントを、ポンポンと手で払ってやる。
「……え?」
アルベルトは、自分がいきなり殺されなかったことに驚き、ポカンと口を開けた。
「毎日毎日、色んな人の顔色を窺って、揉め事の仲裁をして。本当に大変なお仕事ですよね」
「ッ!?」
アルベルトの心臓が、大きく跳ねた。
自分の最も苦しかった胸の内を、誰にも言えなかった王としての重圧を、目の前の魔王が完全に言い当てたのだ。
「上に立つ人って、孤独ですからね。誰も本当の苦労を分かってくれないし、責任ばかり押し付けられる。……でも、あなたは逃げずに、こうして町のみんな(民)のために、僕みたいなヨソ者にまで頭を下げに来た。すごい立派だと思いますよ」
「あ……あ……」
ジンの、一切の裏表がない、純度百パーセントの『労い』の言葉。
それは、何十年もの間「王であること」を強要され、誰からも感謝されることなく心をすり減らしてきたアルベルトの魂に、温かいお茶のように染み渡っていった。
「少し肩がガチガチですね。無理しすぎです。……ほら、そこに座ってください。冷たい麦茶と、ルミナが焼いてくれたクッキーがありますから」
ジンは、呆然としているアルベルトの手を引いて縁側へと案内し、椅子に座らせた。
「あの、これは……我が国の王冠です……。貴方様に、献上を……」
アルベルトが震える手で、宝石の散りばめられた王冠を差し出す。
「おっ、すごいピカピカですね。町内会の神輿の飾りにでも使うんですか? ありがとうございます、ちょうど花壇の横に置く鉢植えの受け皿が欲しかったんですよ」
ジンは王冠をあっさりと受け取ると、庭の『殺人林檎』のプランターの下に、コトリとそれを置いた。
(おお……我がエルディアの歴史と権威の象徴たる王冠が、魔植物のプランターの受け皿に……! しかし、それがなんだというのだ。この御方の前では、人間の王の権威など、その程度の価値しかないということだ……)
アルベルトの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
だが、それは恐怖や屈辱の涙ではなかった。
「うぅ……っ……あぁぁぁ……っ!」
「町内会長さんも、たまには休んでくださいね。ここでは誰もあなたに責任を押し付けたりしませんから」
「魔王様……! いいえ、ジン様ぁぁぁっ! ありがとうございます、ありがとうございますぅぅっ!」
一国の王が、ジンの淹れた麦茶を両手で握りしめながら、子供のように慟哭した。
彼は、ジンが差し出したクッキーを貪るように頬張りながら、これまでの人生のすべての重荷を下ろし、完全なる『陥落』を受け入れたのである。
「陛下ぁぁぁっ! 我々も、麦茶いただいてもよろしいでしょうかぁぁっ!」
近衛騎士たちもまた、主君の解放された姿を見て泣き崩れ、ジンから配られた麦茶を飲んで「うまい、うますぎる」と咽び泣いていた。
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「…………八錠目、入ります」
ボロ小屋の窓際で、ルミナは完全に感情を失った顔で、新たな胃薬を飲み込んだ。
もはや、彼女のツッコミのキャパシティはとうの昔に限界を超えていた。
「ついに……エルディア王国のトップが、自ら支配権を献上し、あまつさえジン様の淹れた麦茶に感涙して完全服従を誓いました。……ジン様は、一滴の血も流すことなく、この強大な国家を『お悩み相談』という名目で乗っ取ってしまわれたのです……」
庭では、麦わら帽子を被った勇者レオが「王様! 肩の力抜いて、一緒にトマト育てましょうよ!」と声をかけ、クラリスが「ここの生活、本当に最高ですよ」と国王におしぼりを渡している。
「終わりました。人類の歴史は、今日、このボロ小屋で完全に塗り替えられたのです……」
ルミナの盛大な勘違いと胃痛は、ついに一国の完全降伏という、前代未聞の平和的(?)決着を見届けたのであった。
ジンの「お悩み相談所」は、図らずも世界で最も安全で、最も恐ろしい『新世界の中心』となってしまったのだ。




