天使の愚痴と、有給休暇のための世界譲渡
空に開いた巨大な穴から、無数の『光の槍』がボロ小屋へと狙いを定めている。
その中心で白金の甲冑を纏い、四枚の翼を広げるのは、古の禁忌によって召喚された神使・セラフィエル。
「――警告。……これ以上の干渉は、創造主の定めた摂理への重大な違反と見なす」
セラフィエルの放つ絶対的な『神威』の前に、元・勇者のレオと元・聖騎士のクラリスは、呼吸すら忘れて地面に平伏していた。
彼らの本能が、「あれは生命が抗ってよい存在ではない」と激しく警鐘を鳴らしていたのだ。
だが。
標的であるはずの青年ジンは、麦茶の入った急須と湯呑みを手に、のんきな足取りでセラフィエルの真下まで歩いてきた。
「まあまあ、そんな物騒な槍を浮かべてないで、少し休んでいきませんか? 見るからに、ものすごく疲れてるみたいですし」
『…………!? 思考回路にノイズ発生。……対象の言語プロトコル、解析不能。……って、なんでこの人間、私の放つ神罰のプレッシャーの中で普通に歩いてるの!? え、お茶!? 私、もう三百年くらい水分摂ってないんだけど!?』
ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】スキルは、セラフィエルの無機質な音声の裏にある『限界ギリギリのシステムエンジニアの悲鳴』を、容赦なく脳内再生していた。
「冷たい麦茶と、温かいカモミールティー、どっちがいいですか? ずっと空に浮いてたら、足もむくむでしょう」
ジンが湯呑みを差し出す。
「……論理の矛盾。神使である私に、有機物によるエネルギー補給は不要……」
『冷たいの! 冷たい麦茶がいい! もうこの甲冑、熱がこもってサウナ状態なんだから!』
「冷たい麦茶ですね。はい、どうぞ」
「……ッ!?」
セラフィエルは、完全に虚を突かれたように目を見開いた。
彼女は無意識のうちにふわりと地上に舞い降り、ジンの手から湯呑みを受け取ると、あろうことかゴクゴクと音を立ててそれを飲み干してしまった。
「ぷはぁっ……! ――エラー、エラー! 未知の液体による内部システムの冷却を確認。……感情抑制リミッター、破損……!」
次の瞬間。
セラフィエルの瞳から無機質な光が消え、代わりに『限界を迎えた労働者』の生々しい涙がボロボロと溢れ出した。
「うわぁぁぁん! もう嫌ぁぁぁぁッ!!」
突如として天の使いが泣き出したことに、レオもクラリスも、そして陰で見ていたルミナも、目を剥いて硬直した。
「聞いてよ人間! 私、この『エルディア星』の管理担当になってから、千年間一回も休みもらってないのよ!? それなのに上の連中(神々)は『下界の様子がおかしいからデバッグしてこい』って無茶振りばっかり! そもそもこの星、バグが多すぎるのよ!」
「バグ、ですか」
ジンは縁側にセラフィエルを座らせ、自分も隣に腰掛けてウンウンと頷いた。
「そうなの! 世界の環境を安定させるための『環境維持装置』として配置した神話級の魔物たちが、ストレスで魔力暴走を起こすの! 破滅の竜王が肩こりで火山を噴火させるし、巨狼フェンリルがノミの痒みで巨大台風を起こすし! 悪魔は労働環境の改善を求めてストライキ寸前だし!」
セラフィエルの愚痴(世界の真実)を聞いて、ジンはポンと手を叩いた。
「ああ、なるほど。それならもう大丈夫ですよ。竜王さんの肩こりはマッサージで治しましたし、フェンリルはうちでシャンプーして、今はそこで大人しくお昼寝してますから」
「…………はい?」
セラフィエルの声が、裏返った。
「悪魔のガリウスさんも、娘さんと仲直りして最近は仕事の調子がいいみたいですよ。スライムも泥パックで酸が漏れなくなりましたし」
「…………は?」
セラフィエルは震える手で、空中にホログラムのような『システム画面』を展開した。
そこには、世界の崩壊度を示すメーターが表示されていた。数日前まで『崩壊率99%(限界寸前)』だったはずのメーターが、なんと『安定度120%(超健康状態)』へと劇的に回復しているではないか。
「う、嘘でしょ……!? 私が何百年もかけて修正できなかった致命的なバグ(神話級の魔物たちのストレス)が、全部クリーンになってる……!? い、一体どうやって……?」
セラフィエルがジンを凝視する。
そして、彼女の視覚センサーが、ジンの魂の奥底に刻まれた『あるもの』を捉えた。
「――対象の固有スキルをスキャン。……【全言語翻訳(Lv.MAX)】。……ば、馬鹿な! この権限コードは、かつて創造主様が下界に落として紛失したとされる、幻の『管理者権限』……ッ!!」
「え? 翻訳スキルがどうかしましたか?」
「あ、貴方! そのスキルのおかげで、魔物たちの『言葉にならないバグ報告(悲鳴)』を受信して、直接物理アクセス(マッサージや手当て)で解決していたのね!?」
セラフィエルは、ガタッ!と立ち上がると、ジンの両手をガシッと握りしめた。
その顔には、先ほどの絶望とは打って変わって、太陽のような満面の笑みが浮かんでいた。
「素晴らしいわ! 貴方は神が遣わした真のデバッガーよ! ねぇ、貴方このまま、この星の『現地管理人』にならない!?」
「えっ? いや、僕はただ、この森で静かに野菜を育てて暮らしたいだけで……」
「野菜作りも世界管理も似たようなものよ! ほら、これ! 私の『神使の輪』を渡しておくから!」
セラフィエルは、自分の頭の上に浮いていた光の輪っかを取り外すと、ジンの麦わら帽子の上にポンッと乗せた。
それは、世界の法則を任意に書き換えることができる、最上位の管理者権限の譲渡を意味していた。
「よぉぉぉし! これでついに、私に千年の有給休暇が降りるわぁぁぁっ! 引継ぎは全部終わったから、あとはよろしくね、新しい神様!」
セラフィエルはバンッ!と背中の四枚の翼を広げた。
「あ、待ってください! お茶のおかわりは……」
「麦茶、最高に美味しかったわ! じゃあねー! ああ、天界のふかふかのベッドが私を待っているぅぅ!」
ドゴォォォォォォンッ!!
セラフィエルは、来た時よりも遥かに凄まじい速度(定時退社ダッシュ)で天の裂け目へと飛び去り、空はあっという間に元の青空へと戻っていった。
後に残されたのは、頭に光の輪っか(※ジンは光るオモチャだと思っている)を乗せたまま、ポカンとしているジンと。
「…………ああ。ついに、天界すらもジン様に恐れをなして、この世界の支配権を献上して逃げ帰ったのですね……」
白目を剥いて壁に崩れ落ちるルミナと。
「ジ、ジンさん! 今の、神の使いですよね!? なんで笑顔で帰っていったんですか!?」とパニックになるレオとクラリスだけであった。
▼▼▼
同じ頃。
エルディア王国の王都、中央大聖堂。
儀式の成功を見守っていた国王と神官たちは、空に開いた天門が、現れてからわずか数十分で『パタン』と無情に閉じられたのを見て、呆然としていた。
「神使様が……お帰りになられた……? ば、馬鹿な。まだ魔王は健在だぞ!?」
「陛下! 偵察部隊からの緊急通信です! 神使様は魔王と接触した後、自らの『光の輪』を魔王に捧げ、そのまま天へと逃げ帰ったとのことです!」
「な、なんだと……ッ!?」
謁見の間に、死のような沈黙が落ちた。
それはつまり、神がこの世界を見捨て、魔王を「新たな神」として承認したということに他ならない。
「終わった……。我々は、天にすら見捨てられたのだ……」
国王はその場に崩れ落ち、ついにエルディア王国は、抗う気力すらも完全に喪失したのであった。




