王国の終焉と、天より降りし非情なる神使
エルディア王国の歴史において、これほどまでに暗く、絶望に満ちた静寂が王宮を包んだことはなかった。
数万の精鋭騎士団、そして王国最高の精神的支柱であった『聖光の乙女』クラリス。その全てが『深淵の森』の奥深くに飲み込まれ、消息を絶った。
生還した数少ない兵士たちは、一様に精神を病み、譫言のように「魔王の慈悲が恐ろしい」「麦茶の呪いが」と口走るのみ。
「……もはや、人の手には負えぬというのか」
玉座に座る国王の顔は、数日で十年分も老け込んだように憔悴しきっていた。
目の前のテーブルには、偵察部隊が命懸けで持ち帰った魔導写真が置かれている。
そこには、泥にまみれた鎧を脱ぎ捨て、魔王と親しげに談笑し、あまつさえ得体の知れない「甘い供物」を頬張るクラリスの姿が写し出されていた。
「勇者レオ殿に続き、クラリスまでもが……。あの男は、力でねじ伏せるのではなく、魂を内側から腐敗させ、自らの奴隷へと作り変えるのだ。これこそ真の邪悪……神に背く最大の大罪よ!」
国王の隣に立つ老魔術師が、震える声で断罪した。
彼らにとって、ジンの「お悩み相談」と「おもてなし」は、人類の誇りを根こそぎ破壊する、最も残酷な精神支配に他ならなかったのである。
「陛下。……失われた光を取り戻すには、もはや地上に存在せぬ力に頼るしかございません」
重く閉ざされていた謁見の間。その扉を開けて入ってきたのは、漆黒の法衣を纏った教団の枢機卿であった。
その手には、建国以来一度も開かれたことのない、錆びついた銀の箱が握られている。
「教皇庁より許可が降りました。……禁忌儀式『天門開門』を執り行います」
「な……ッ! それは、古の神が『人の世が崩壊の危機に瀕した時のみ使え』と遺した、神の使いを招喚する儀式ではないか!」
「左様。もはや、このエルディアは滅亡の淵にあります。神に祈り、天の裁きを地上に降ろしていただくのです。……あの魔王も、神の使いの前では、ただの羽虫に過ぎないでしょう」
国王は、震える手でその銀の箱に触れた。
それが、取り返しのつかない「世界の法則」を歪めることになると知りながらも、止める術を彼は持たなかった。
▼▼▼
王都の中央大聖堂。
数千人の神官たちが血を吐くような詠唱を続け、魔法陣からは天を貫くような白銀の光柱が立ち昇った。
エルディア王国の魔力の大半を犠牲にし、発動した禁忌の術。
やがて、雲が渦を巻き、天の裂け目から巨大な「鏡」のようなものが姿を現した。
そこから降りてきたのは、巨大な四枚の翼を持ち、幾何学的な紋様が刻まれた白金の甲冑に身を包んだ、性別不明の美しい存在だった。
その瞳には感情の色は一切なく、ただ冷徹な『数式』のような輝きを湛えている。
「神使・セラフィエル。……要請に基づき、現界した」
その声は、音というよりも直接脳に響く振動のようであった。
周囲にいた神官たちは、そのあまりにも高純度な魔力の重圧に耐えきれず、次々と気を失っていく。
「おお……! 神のお使いよ! どうか、あの邪悪なる魔王を……世界を蝕む闇を、消し去ってください!」
国王が涙を流して跪く。
セラフィエルは、無機質な瞳で遥か遠くの『深淵の森』を見据えた。
「――検索完了。……該当エリアに、世界の論理に存在せぬ『未知の変数』を確認。……管理権限を侵害する恐れあり。……排除対象として認定する」
セラフィエルの背後に、巨大な『光の槍』が無数に浮遊し、展開された。
それは一振りで都市を蒸発させる、文字通りの『天罰』。
天の使いは羽ばたくこともなく、ただ空間を滑るようにして、ジンの待つ森へと向かって加速した。
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(……嫌な予感がする)
小屋の屋根を修理していたジンは、不意にカナヅチを止め、空を仰いだ。
青空は変わらず美しく、鳥たちも囀っている。
だが、肌を刺すような、どこか「不自然に整いすぎた」空気の揺らぎを感じていた。
「ジン様、どうされましたか?」
下でハシゴを支えていたルミナが、心配そうに尋ねる。
彼女の隣では、最近すっかり「畑仕事の後のプロテイン代わり」としてポチ(フェンリル)とじゃれ合うのが日課になったレオと、可愛いエプロン姿で洗濯物を干しているクラリスが楽しそうに笑っている。
「いや、なんだか……すごく『お堅い人』がこっちに来るような気がしてさ」
「お堅い、ですか?」
ルミナが首を傾げる。
その直後だった。
森の結界(※ジンの柵)の外側に、眩いばかりの光が降り立った。
現れたセラフィエルの姿を見て、レオとクラリスの表情が一瞬で凍りついた。
「あ……あ……ッ。あれは……『天使』……!?」
「神の使い……。そんな、禁忌の儀式が本当に行われたというの……!?」
二人は、本能的な畏怖に膝を突き、震え始めた。
セラフィエルの放つ魔圧は、これまでの竜王や悪魔とは次元が違った。それは「強さ」というより、世界のルールそのものが迫ってくるような、圧倒的な「正しさ」の圧力だった。
だが。
セラフィエルが放った、地獄の底まで凍りつかせるような無機質な宣告。
『イレギュラー個体。貴様の存在は、この世界の熱力学および運命論的整合性を著しく阻害する。……論理的抹消を、これより実行する』
これが、ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】にかかれば、こう変換されて脳内に響いたのである。
『――エラー報告。……修正プログラムを実行中。……ええい、もう! このエリアだけバグが多すぎて、処理が全然追いつかないんですけど!? 私、有給休暇の申請出してるのに! 上の管理職(神)は「現場でなんとかしろ」って丸投げだし! もう、一回全部リセットして再起動したいわ、本当に!』
「…………」
ジンは、屋根の上で深く、深いため息をついた。
「……ルミナ。悪いけど、追加で湯呑みを一つ持ってきてくれる?」
「えっ? ジン様、まさかあのアドベントされた天の使者をも、接客されるおつもりで……!?」
「いや、接客っていうか……。あの子、相当『仕事』が立て込んでて、パンクしそうになってるみたいなんだ。……放っておいたら、過労で暴走しかねないからね」
ジンはハシゴを降り、無数の光の槍を背負って浮遊する「天の使い」に向かって、のんきに手を振った。
「こんにちはー。お仕事、大変そうですね。とりあえず、落ち着いてお茶でも飲みませんか? システムのバグ探し(愚痴聞き)なら、いくらでも付き合いますよ」
『…………!? 管理権限外の言語プロトコルによる干渉を確認。……精神汚染の脅威レベルを「極大」へ更新。……論理的思考回路が……あ、あれ? お茶……? 私、最後にお茶飲んだの、いつだっけ……?』
セラフィエルの冷徹な瞳が、ほんの一瞬、揺らいだ。
王国の最終兵器、神の使い。
その「世界の管理者」としての誇りとシステムが、ジンの規格外すぎる「お悩み相談」によって、今、致命的なエラーを起こそうとしていた。




