聖光の乙女の隠された本音と、数万の軍勢を崩壊させる一杯の麦茶
「こ、来るな……ッ! 邪悪なる魔王め……ッ!」
落馬し、泥にまみれた『聖光の乙女』クラリスは、震える手で聖剣を握り直し、じりじりと後ずさった。
彼女の眼前に迫るのは、お盆に湯呑みを乗せたまま、一切の殺気もなく歩み寄ってくる青年――ジン。
その歩みは、ただの「お茶出し」の足取りに過ぎない。
しかし、数万の聖騎士たちには、それが『空間そのものを支配する絶対者の蹂躙』にしか見えなかった。
「おのれ魔王! 総長をお守りしろォォォッ!」
「全軍、突撃! 結界ごとあの男を叩き斬れぇぇぇッ!!」
数千の重装騎士が、クラリスを庇うように一斉に武器を振り上げ、ジンに向かって殺到しようとした。
だが。
『ワォォォォンッ!!』
ジンにお盆を乗せられて手伝いをしていた神話の巨狼フェンリル(ポチ)が、「ご主人様に近づくな」とばかりに、軽く威嚇の咆哮を放った。
ただの犬の「ワン」のつもりだったが、神話級の魔獣の覇気は、数万の軍勢の動きを完全に縫い留めた。
「ひぃッ!?」
「か、体が……動かない……ッ! これが、神話の魔獣のプレッシャー……!」
「違う! 魔王の放つ底知れぬ魔力が、我々の魂を直接縛鎖しているのだ……ッ!」
(※注:ジンは何もしていません。ただ「お茶こぼさないようにしないと」と手元を見ているだけです)
完全に動きを封じられた数万の軍勢を置き去りにし、ジンはクラリスの目の前で足を止めた。
そして、ゆっくりとしゃがみ込む。
「大丈夫ですか? 派手に転んでましたけど、お怪我はないですか?」
ジンが優しく手を差し伸べる。
だが、クラリスは血の気を引かせ、その手をピシャリとはねのけた。
「気安く触れないでくださいッ! 私は王国最高位の聖職者であり、聖騎士団総長クラリス! 貴方のような邪悪な魔王の誑惑には、決して乗りません!」
クラリスは、決死の覚悟で青白い顔を上げ、ジンを強く睨みつけた。
「私がここで倒れようとも、神の正義は不滅です! 貴方が勇者殿の魂を汚し、この世界を漆黒に染めようとも、第二、第三の光の剣が必ずや貴方を討ち果たすでしょう……ッ!」
凛とした、誇り高き聖騎士としての宣言。
周囲の騎士たちは、その気高い姿に涙し、「おお、クラリス様……!」と祈りを捧げた。
だが。
ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】にかかれば、彼女が必死に繕っているその「聖女としての矜持」の裏側にある、悲痛なまでの『本音』が、一字一句違わず脳内再生されてしまうのだった。
『嫌だぁぁぁぁぁぁッ!! 怖い怖い怖い! なんで私が先陣切ってこんなヤバい森に来なきゃいけないのよぉぉぉッ!!』
「…………え?」
ジンは、思わず目を瞬かせた。
『そもそもこの鎧、重すぎて肩こるし! 毎日毎日お祈りと剣の修行ばっかりで、休みなんて一日もないし! 私だって本当は、同年代の女の子みたいに可愛いフリフリの服を着て、王都のカフェで甘いパンケーキとか山盛り食べたいのにぃぃぃッ! もう嫌だ、帰りたい、帰ってベッドで丸まりたいよぉぉぉッ!』
「…………」
ジンの目に、強烈なまでの『哀れみ』の光が宿った。
まただ。また、王国のブラックな労働環境の犠牲者が、こんな森の奥まで無茶振りで派遣されてきたのだ。
しかも、今度は同年代の若い女の子。重圧に押し潰されそうになりながらも、「総長」という立場のせいで弱音一つ吐けず、虚勢を張っているのだ。
(王国の上層部は、本当にろくな大人しかいないな……。こんな女の子に、数万の兵の命と、世界の平和を背負わせるなんて)
ジンは、ため息を一つ吐くと、お盆から温かい麦茶の入った湯呑みを取り出し、クラリスの手に無理やり握らせた。
「な、何を……! 飲まないと言っているでしょう! このような毒杯……」
「クラリスさん、と言いましたね」
ジンは、彼女の目を真っ直ぐに見つめ、信じられないほど穏やかな、そしてすべてを許容する声で言った。
「もう、無理して『聖光の乙女』なんて演じなくていいんですよ。肩、すごく張ってますね。その重い鎧、ここでは脱いでも誰も怒りませんから」
「…………ッ!?」
クラリスの心臓が、大きく跳ねた。
自分の最も隠しておきたかった、そして誰にも言えなかった『重圧』と『本音』を、見透かされたように言い当てられたのだ。
「え……あ、貴方は、何を……」
「毎日お祈りと修行ばかりで、ずっと甘いものも我慢してきたんでしょう? パンケーキはないですけど、さっき焼き上がったばかりの『木の実のパウンドケーキ』ならあります。甘くて、疲れが吹き飛びますよ」
ジンがポケットから、紙に包まれたパウンドケーキを取り出し、そっと彼女の膝の上に置いた。
「嘘……どうして……。私の、心の声が……」
「王国での仕事が辛くなったら、いつでもうちの相談所に来てください。フリフリの服は用意できないかもしれないけど、ルミナにお願いして可愛いエプロンくらいなら作ってもらえますから」
ジンがふわりと微笑んだ瞬間。
クラリスの中で、十数年にわたって彼女を縛り付けていた『聖職者としての鎖』が、音を立てて粉々に砕け散った。
「うぅ……っ……あぁぁぁ……っ!」
クラリスは、握りしめていた聖剣を放り出し、泥だらけの地面に両手をついて、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「私っ……本当はっ……虫も殺せないくらい怖がりなのに……っ! 毎日毎日、血を見るのが嫌で……っ! 甘いもの、食べたかった……っ! 普通の女の子みたいに、オシャレしたかったぁぁぁぁっ!!」
『聖光の乙女』の、完全なる陥落であった。
彼女は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ジンからもらったパウンドケーキにむしゃぶりつき、そして麦茶をずずずっとすすった。
「おいひぃぃぃ……っ! 甘い……っ! こんな美味しいお菓子、初めて食べましたぁぁっ!」
「ゆっくり食べていいですよ。お茶もまだたくさんありますから」
ジンは、号泣しながらケーキを頬張る聖騎士団総長の背中を、優しくポンポンと撫で続けた。
▼▼▼
(…………終わった。我が国の、いや、人類の正義が、完全に敗北した)
その光景を後方で見ていた数万の王国軍は、絶望のあまり膝から崩れ落ち、武器を取り落とした。
彼らの目には、この異常なやり取りがどう映っていたか。
魔王が、絶対的な威圧感と共に歩み寄る。
そして、総長クラリスの耳元で「恐るべき呪いの言葉(洗脳の呪文)」を囁いた。
次の瞬間、強固な信仰心を持っていたはずの総長の精神が完全に破壊され、魔王から与えられた『洗脳の毒餌』を貪り食う、自我を失った傀儡へと成り果ててしまったのだ。
「あ、あああ……っ! クラリス様が……我らの光が……!」
「ダメだ……! 勇者殿も、総長も、あんな一瞬で心を破壊された……! 我々が束になっても、あの魔王の精神支配には抗えないッ!」
「に、逃げろォォォォォォッ!! 世界はもう終わりだァァァァッ!!」
数万の軍勢が、パニックを起こして蜘蛛の子を散らすように森の出口へと逃げ出していく。
「あー、皆さん! 麦茶まだありますよー! 待ってくださーい!」
ジンが呼び止めるが、彼らは「魔王が毒液をばら撒こうとしている!」と勘違いし、さらに加速して逃げ去っていった。
「あーあ。せっかくたくさん淹れたのに。……おーい、ポチ、プル、レオ君。余った麦茶、みんなで飲もうか」
『ワォン!』
『冷たくて美味しいわぁ』
「はい、ジンさん! 俺、畑仕事の後の麦茶が一番好きです!」
のんきに縁側でお茶会を始めるジンと魔物たち、そして元勇者。
その輪の中に、泥だらけの鎧を脱ぎ捨て、パウンドケーキを頬張るクラリスの姿もあった。
「ジン様……私、明日からここの受付嬢の補佐として働きます……! もう王国には帰りません!」
「うんうん、ゆっくり休むといいよ」
▼▼▼
「…………七錠目、入ります」
ボロ小屋の窓際。
元・暗殺者のエルフ、ルミナは、完全に光を失った虚無の瞳で、新たな胃薬を口に放り込んでいた。
もはや、彼女の胃壁は限界を突破していた。
王国最強の暗殺者。神話の竜王。四天王の悪魔。異世界の勇者。そして、数万の軍勢を率いる聖騎士団総長。
人類と魔族の最高戦力すべてが、この「ただの木造のボロ小屋」に集結し、あまつさえジンを神の如く崇め、笑顔でお茶をすすっているのだ。
「ジン様は……一滴の血も流すことなく、数万の軍勢を崩壊させました。そして、王国の精神的支柱を、たった一個の焼き菓子で奪い取ったのです……。もはや、この相談所を落とせるのは、創造神の天罰くらいしか……」
ルミナの盛大な勘違いと、世界規模の壮大なすれ違いは、ついに王国軍の完全敗北という形で一つの決着を見たのだった。




