第八章 ただの初恋
最悪の目覚めだった…。背中や腰に汗をじっとりとかいていて気持ちが悪い。目を開けると俺の顔を覗き込む一つの顔があった。パンドーラさんが心配そうにこちらを見ていたのだ。俺が目を開けたことに気がつくと少しだけ彼女の目元が和らいだ。
「大丈夫ですか… ?うなされてましたけど…」彼女は優しくそう言って、俺の額の汗を綺麗な布で拭ってくれた。
「ああ…ありがとう…なんか、嫌な夢を見ていた気がするんだけど…覚えてないや…。それより、俺…どれくらい寝てた?」
「四時間くらいですかね」
「そんなに寝てたのか…君は寝ないの?」
少し体勢を起こして周りを見ると、火傷を負った子供たちの横でアテナさんとカオスさんが寝ていた。デュールもソファに寝かされていて、ソファにもたれるようにフレイヤさんが寝ていた。
「私はまだ…眠くないので…」そういう彼女の目は心なしかぼーっとしていた。
「いや…眠そうじゃないか…もしかして…いや、なんでもない…」やっぱり、俺が起きるのを待ってたのか?なんて、気恥ずかしくて言えなかった。
彼女は少し間を置いて口を開いた。「アルシエルさんが心配だったんです…。それに…感謝も改めて伝えたかったですし…。」
彼女は静かに微笑んだ。俺はもうほとんど疑ってはいなかった。彼女が俺を化け物だと思っているなんて。だって…そのさまは花というより天使だったのだから。
「私、今まで悪い人に出会ったら神の力でどうにかなるだろうと思ってたんです…。でもさっき初めて知りました。いざとなったら、怖すぎて体が動かない…。でも、アルシエルさんがアイツに剣を刺してくれたとき、私思ったんです。この人みたいに強く生きたいって…。」
「俺が…強く……いや、俺は君が思ってるほど強い人じゃない…」
「それでも…かっこよかったです…」
彼女の頬が赤らんで見えるのはきっと、天井から静かに照らしていた暖色のライトのせいだろう。
「あ…うん…そうか……」
誰かに心臓を掴まれた気がした。心なしか脈拍が上がっていく。
数秒間俺たちは黙り込んだ。俺はなんて言えばいいのか分からなかったのだ。沈黙に耐えられなくなった俺は急遽話題を変えた。
「そういえばデュールは大丈夫なのか?」まあ軍人があれしきで死ぬことはないだろうが。
「え、えぇ…内臓のダメージが大きかったんですけど、アテナさんが治療してくれて、なんとか…。」彼女は気のせいか、早口で話した。少し慌てるように。
「そうか…フーリンくんとか、オオクニヌシくんとか、他のみんなは?」
「あ…」彼女は言葉を詰まらせて少し俯いた。垂れ下がった真っ黒な前髪の隙間から少し寂しそうに下を向く目が垣間見えた。
「一応みんな避難しました。ただ、ムートンおばさんは子供たちが心配だから残るって…留まったんです…私は…なんかもう…どうでも良くなっちゃって…動けなかったといいますか…」
「そうか…この子達の親は自分たちの子どもを置いて逃げたのか?」
俺は大火傷を負った子供達を指して聞いた。
「ああ…あの…避難したというより…みんな怖がって逃げたんです…あれですよ…急に襲ってきた男が怖くてみんな逃げたんです…」
そうやって彼女がした不自然な補足に俺は気がついた。みんなが恐れていたのは襲ってきた男たちじゃない…。彼らを守った俺だ…。わかっているのに、言わないのは締まりが悪かったので、自分から言った。
「皆が怖がっていたのは…男たちじゃなくて、俺だろ…」
「…」
彼女は黙っていた。そして少し何かを考えてまた口を開いた。
「さっきデュールから聞きました。アルシエルさんは退役軍人なんですよね?デュールもそうでしたけど、あのとき動けたのはあなたたちだけでした。子供達が一命を取り留めたのは二人のおかげです。それに私たちは、人が死ぬところなんて初めて見ましたけど、きっと二人にとってはそれが普通だったんですよね。ただ初めてで少しビビっただけだと思います。」
俺は少し黙り込んだ後に、自分を嘲笑するように言った。
「彼らは男たちが死んだことに怖がってたんじゃない…俺という存在を怖がってたんだ…。」
「そうかもしれません…。でも、誰がなんと言おうと、私はアルシエルさんが好きです。」
彼女は顔色ひとつ、声色ひとつ変えずそう言った。
さらに強く心臓が握られた気がした。
「好きです?」何を言っているんだ?何が好きなんだ?頭が真っ白になった。その言葉は母と兄にかけられて以来、俺の辞書の深い所で黒く塗りつぶされていた言葉だった。
「え…?」思わず疑問が声に出てしまった。
彼女は「しまった」というような顔をして目を泳がせた。雪のように白い肌がりんごのようにみるみる赤く熟れていく。
俺は何かを察してしまった。察したくない何かを。そのときに俺の中に出て来ていた感情は、皆が思うようなもの「緊張」「羞恥」ではなかった。紛れもない「恐怖」である。
俺は、『愛』というものがよくわからない。その中でも最も禁忌としていたもの。それが『恋愛』だった。もっと早くに気づけたはずだ。だって四時間経っても眠りもせずに俺の顔を覗き込んでいるんだぞ。そう思うと、だんだんと察したことを裏付ける証拠が集まってきて、心拍数がどんどん上がっていった。どんどん押し寄せる恐怖の波に飲まれていった。
「初めて会った時はなんとも思わなかったんですけど、さっき助けてもらった時から、あなたのことが頭から離れなくて…。それにアルシエルさん、火の中に飛び込んで子供達を助けにいったじゃないですか…その姿も…なんていうか…すごく…かっこよくて…」
恥じらいを隠しきれないままで彼女はそう語った。
「え…あ…あぁ…でも俺は…火の中に飛び込んでも、心臓を刺されても死なないんだぞ…怖いだろ…」
息が切れる中、それが俺が答えられる言葉の限界だった…。
「いえ…別に…そういう能力なんですよね…?まあそれに、能力じゃなかったとしても私は…好き……ですけど…」
俺の最後の目に映ったのは恥ずかしがる彼女の顔だった。そこからは俺の精神に限界が来たのかよく覚えていない。




