第七章 折れない剣
夢を見た。
あの日の夢だ。僕は炎の渦を眺めていた。それはまだ、自分の容姿を気にするようになったばかりの十四の青年には刺激が強すぎたのだろう。その恐ろしさから、成人も近い兄の腕を幼子のように強く握っていた。
あの高台から見た景色はまさに地獄だった。いや、その業火が全てを平等に焼いていく様は、地獄というよりも煉獄という感じだろうか。恐ろしくも美しくも、その火は全てを焼き去った。
天を貫く炎の渦の中には、この世に存在する火の神様を統べる、重要な大神様を祀る大礼拝堂の影が見え隠れしている。
それが起こったのは、ちょうど僕が兄とその礼拝堂に参拝し、その帰路についていた時だった。
参拝した時は特に異変も何も感じなかったのに。きっとあの礼拝堂には、素晴らしい徳人もたくさんいただろうに。
煉獄の炎は大礼拝堂から周りの木々にとびうつり、周囲の森を韋駄天たる速度で蹂躙していった。僕たちは兄の咄嗟の判断で火の手から逃げ切ることができた。
しかしその炎は大陸の約五分の一の面積を焼いた。その炎は最高で廃都アトラスの先まで届いたらしい。焼け野原では、深黒に染まり焼け落ちた木々や民家の上に、焼かれて墨色になってしまったのかわからないさらに黒いホワイショウ(カラスの近縁種)が踏み鳴らすばかりだった。あの鉛が焦げたような臭いは今でも鮮明に覚えている。
ハッ!!
夢から醒める時だった。夢と現実の狭間に、あの日の炎のように燃え盛る業火を見た。なぜか嫌な予感がする。目を覚ますとそこには確かに眠りに入った時と変わらない、幸せな時間が流れている。なんだ…何がこんなに不安なのだ?
反射的に横に置いていた剣を握る。あれ…何か…飛んでくる…。
「…?」その時、その光景を見た瞬間、コンマ一秒で理解した。陸軍でもよく使っていた火炎爆弾…それがこの家に投げ込まれたのだ。庭には天井がない。そこから爆弾は放物線を描き、目の前でままごとをしていた子供達の間に着弾した。
その時、俺は気づきはしたが、寝起きだったが故に次の行動に素早く繋げられなかったのだろう。行動をするのが遅れた。爆弾をどこかに投げ返そうと動くも、もう間に合わないことは分かっていた。その刹那は、時が止まったように長く感じた。その時に、デュールさんもそれに気づいて爆弾に向かって言ってるのが分かった。この時、この状況は軍人のみが全てを理解していた。でも両者、その起爆に間に合うわけもなかった。
激雷のような音と共に、俺は炎に包まれた。何度も体験したこの熱さ。なんてことはない。しかし、何がどうなったかもわからず、火の海に喘ぐ子供達を見るとどうしてか、この炎が…信じられないほど心に染みて痛かった。
「キャァァーーー」状況の整理もできないみんなが悲鳴をあげ出した。俺は「火だるま」になりながら次々と投げ込まれてくる火炎爆弾を投げ返した。
周りの人間がどうなっていたかはよくわからなかったが、逃げまどったり泣き叫んだりしていた。
でも不思議と、俺は何をすればいいかよく分かった。この人たちのことはアテナさんとカオスさんがなんとかしてくれる。俺はこんなことをした張本人たちを撃滅すればいい。ただそれだけだ。
庭を囲む塀の上に一人の男が顔を出す。フード付きマントをしていて、その全貌はよく見えないが、その男が爆弾を投げた張本人で間違いない。その男は塀を越えて乗り込んでくる。男が着地する寸前だった。俺は、剣で男の心臓を貫いた。怒りに身を任せた一撃は決して優れたものじゃなかったが、剣は男を串刺しにしたまま、庭の塀を突き破った。
視界が開けた先には、三…五…八…十三…十五…十五人の武装した男たちがいる。彼らは驚いた様子だったがおそらく敵。
この時、俺はいつもの、戦う前の踏みとどまった感覚にはならなかった。俺は今日、君という悪魔の全てを肯定した。ヴァーリを殺した時の自分勝手な殺意とは違う。自分は正しいのだという、絶対的な正義たる大義名分のもとに、その刀身に憎悪を宿らせていた。なぜ、そう思ったのかは分からない。というより、どうでも良かったのである。
剣を振り払い、剣に突き刺さった男を路肩に放り投げた。すると、目の前にいる敵どもは体勢を少し崩し、俺という英傑に戦慄した。そう、相手の集中力が途切れた時、そこが最も敵を沈める好機である。俺はまた勢いよく走り出す。
放たれた矢のように突撃し、右!左!右!と剣を大きく振り、俺は近くにいた三人をすぐさま連続で叩き切った。俺が三人目を切り終えた時にはまだ、一人目に切った男の頭が宙を舞っていた。
それを目の前で見ていた二人の男はそれに腰を抜かして逃亡した。残った者たちが必死に呼び止めるがその声は届かない。
残り十人…。そのうち七、八人はすでに腰を抜かして立てなくなったり、武器を構えつつも動けなくなっていた。
ただ、そのうち二人は動ける者だった。一人はこちらに向けてレールガンを構える若者。(レールガンとはこれまた上等な物を)。もう一人は手元でエネルギーをこねている中年の男(おそらく戦闘系の能力者)。ただ二人とも、その顔に恐怖心が滲み出ている。彼らの首元には汗が滴っていた。戦闘時、「死ぬかもしれない」というように、人は未来のことに意識を持ってかれると弱い。おそらくこの二人は、自分の力を信じて疑わなかったヴァーリより格下だ。そうやって、まるで物の怪を見下すような目で彼らを見下した。
「スパンッ!」と、一周回って気持ちのいい音を立て、レールガンが暴発した。
「おかしいな…」そう思った。なぜか。レールガンは俺から外れた全然違う方向を射抜いた。フーリンくんの家の方向に…。運よくその一撃は家から少し下方向にズレた。
すかさず若者は二発目を構える。不幸なことに、次はちゃんとまだ皆がいるであろう家を捉えているのだ。「まずい…」そう心の中でつぶやく…。
どうしてだろうか…。何がしたかったのだろうか…。俺にもわからない。わからないのは、こいつらがなぜ家を狙ったかではない。わからないのは、なぜ、会って一日しか経たない奴らと、知らない人たちのために身を捧げたのかだ…。
雷管が発火する音と共に俺は、レールガンの射線に立った。そこで剣を構えている自分がいたのだ。
認識する間もなく、次の瞬間にはバレルを飛び出した銃弾が、神通力のごとく、真っすぐに、勝ち誇っていた英傑の剣と心臓と…正義の魂を貫いた。
「は…?」人生で初めて、胸に大穴が空いた。大穴からは容赦なく、滝のように血潮が流れている。その傷は、戦場で何度も受けた射創(弾傷)や、まして致命傷なんて生易しいモノでもなかった。名状するならば、致死の一撃であった。若者からの鎮魂歌とも言い換えられるのかもしれない。
そして、剣は小枝のように銃弾に打ち砕かれ、その破片は男の首元を掠めて飛んで行った。
力が抜ける。
視界が狭くなっていく。
何もーー聞こえなくなっていく。
化け物は地に臥した。俺は不安感が消えたことでフゥと安堵の息を漏らした。俺の神の力で反撃しようとはしていたが、きっとこの化け物には効かないということに薄々気づいていた。
「おい小僧でかした。」俺は息を詰まらせながらもなんとか、レールガンを持つ少年に向かって賛美の言葉をかけた。しかしまだ、化け物が眼前にいた時の情景が脳裏に焼き付いて離れず、心臓がSOS信号を強く刻み続けていた。
展開が早すぎて脳の処理が追いついていない。一度状況を整理しよう…。
まず、カオスをあの教祖に連れていくこと、アテナという小娘を殺害すること…それがこの作戦の目的だった…。そして俺は事前に、この村には王国軍の英雄「デュール・アレース」がいることは聞かされていた。だから彼にも勝てるであろう「古の神の力」を持つ俺が派遣された…。それなのに…なんだよあの化け物は…。聞いてねえよ…一年前…「アルキュライタス戦争」で戦死したはずの…『生ける厄災』がまだ生きてたなんて…。
確かあいつの名は…「アルシエル」
ーー男の名は「イーアペトス・アレース」。復神教によって派遣された、「帝国軍」の特殊作戦部隊の隊長であった。
「いくら神殺しと恐れられたお前も、輪廻の大輪から抜け出すことはできなかったか…」彼の死体を見下ろしながらそう呟いた。
「お前ら…何腰を抜かしてる…。早くデュールとアテナを殺し、カオスを捕えろ!」腰を抜かす村の民に怒鳴りつけた。やっぱり、デュールたちに不満を持っていた貧困層の民を募って小隊を作るなど、無理があったんだ。
「ですが…イーアペトス様…死ぬなんて聞いてません…」歯の抜け切った村の翁が怯えながらそう言った。
「働かねえなら金は出さねえ…」そう言って俺はデュールの家のほうへ歩いて行った。
「小僧、いくぞ。デュールは俺が殺る。お前は巫女の服を着た女を殺して、白装束を着た女を捉えておけ。いいな?」俺は部隊に入ったばかりの少年に言った。
ーー少年は一ヶ月前に帝国軍「ウルフガング地方侵略計画作戦部隊 二番隊」に派遣された新兵だったが、射撃の腕を見込まれ、本作戦にイーアペトスの援護として参加している。
しかしまさか、アルシエルを仕留めちまうなんて、小僧…スピード昇格間違いなしだな…。
俺は急いで家に走った。壊れた外壁から敷地に入った。敷地には結界が貼られていたが、下等なもので、すぐ壊せた。真ん中には大火傷を負った子供達を看病するアテナとカオスがいる。今日は本当に運が良い。
家にはもう、怪我人とカオス、アテナ、長髪の男と白髪の女、大女と黒髪の若い女しか残っていなかった。それ以外はみんな逃げてしまったのだろう。
「デュールいるかー」そう険悪な顔をする皆に聞くと、驚いたような顔をして皆がこちらを見た。その中にはよく見覚えのあるあの男の顔があった。
長髪の男が目をかっぴらいて言う。「おい…お前…どうして…ここに居る…?」
男が立ち上がりゆっくりこちらへ歩いて来る。
「それは、アルシエルをどうしたのかってことか?それとも縁を切った弟がなんで今さら兄の前に現れたのかってことか?」
数秒、黙りこくって男は俺を見つめていた。
「どっちもだよ!!」男は息を乱しながら叫んだ。手を顔に当てて俯く。
「実の兄の前だし、本当のことを言おうか…。アルシエルは殺した。そして、復神教のバカどもに頼まれてアテナを殺し、カオスを攫いに来た。」俺はいたって冷淡にその言葉を発した。アテナとカオスは瞳孔をこれでもかと言うほど開いてこちらを見ていた。倒れた子供たちに触れる二人の手は震え、その首は汗ばんでいる。
デュールが俯きながら少し黙ってから静かに言った。「……頼む…こんなことやめて帰ってくれ…お前のせいで子供たちが大火傷を負ったんだ…。それにこの二人をお前にどうこうさせるつもりもない…。何より俺は…お前と戦いたくない…。」
「何言ってるんだよ…あんたは俺には勝てない。あんた、俺のこと攻撃できねえだろ。生殺与奪は俺にある。」
するとアテナが、泣きそうになりながら話に割り込んできた。「本当に…アルシエルさんを殺したの…?」
「まあな…でも俺が殺したんじゃない。俺の部下のお手柄だ。家に向けてレールガンを放とうとしたところ、急に男が射線に立って自爆したよ。何がしたかったんだろうなぁ…。」
「頼むから…早く帰れ!」デュールが恫喝した。その声には怒りが混じり出す。
デュールが筋骨隆々な拳で俺の胸ぐらを掴む。俺はそれでも冷静に右手に力を溜めた。もう循環は完了してる。あとは放つだけ。古来より伝わる神の力。その力は純白の光を放つ。俺は体中で回っていたエネルギーを右の手に一気に集中させ、デュールの左脇腹をめがけて振り抜いた。拳が当たったとき、飽和状態になったエネルギーが爆発した。長髪の男は盛大にのけぞりながらぶっ飛んで、家の壁に頭と背中を打ちつけた。
ーー古の神の力は原点にして最強の神の力である。戦争の神の力を持つデュールは戦闘スキルこそあるが、自己を防御する術を持たず、防御力が著しく低い。さらに実の弟を前にしたデュールは神の力で防衛しようとも思えず、一撃で失神した。
「あなた!」白髪の女が倒れこむデュールの元へ駆け寄った。
大女は何も言わずにその情景を黙って見ていた。その横にもう一人女がいるのに気がついた。
「あれ、いい女がいるじゃねえか」俺は黒髪の若い女を見ていった。よく見たらすごく美しい顔をしている。
「お前…俺の女になれよ」あーほんとに、力は良いなぁ。力を振るえばなんでも手に入る。
「………」彼女は震えながら黙り尽くしている。少しの間、何も言わずに目を合わせていた。怖いならなぜ逃げなかったのだ。愚かなやつだ。
「やめてください!わかりました。私のことは殺していいので、どうかカオスさんとパンドーラさんは許してください。」アテナが自分を犠牲にして言った。
それをカオスが引き止める。「ダメだよアテナちゃん。これはもともと僕の責任だから…。」
「おいお前!僕が教祖のところへ行ってやる。だからアテナちゃんとパンドーラさんに手を出すな!」カオスが大喝した。
「だからさぁ…お前が指図できる立場じゃねえんだよ…」
「僕を舐めすぎじゃないか?僕の能力は未知の領域だ…。お前の力よりもっと奥が深い。」
「わぁかったわかったよ…アテナの命は許してやる。カオス、お前は復神教に連れてく。そして、パンドーラ?って言うのか?お前は俺と一緒にこいや。」俺はカオスにそう言って、黒髪の女の腕を掴んだ。そういえば小僧が来ない…何をしているんだか…。
「いやだぁ!」女の腕を引っ張ると甲高い声で悲鳴をあげた。
「パンドーラさんは関係ないだろ!」またカオスが叫ぶ。
「いや、こいつは引けねえ。離して欲しければ俺を殺してみろ。」俺は…この歳になるまで独身で焦っていたのかもしれない。いや、俺はこの場において最強であると、生殺与奪の権は俺にあると思い込んでいたのだ。欲は身を滅ぼす。そんなことよくわかっていたのに。
「おら!いくぞ」椅子にしがみつく彼女を無理やり引き剥がした。カオスにこっちへこいと指図をしてこの場を去ろうとした。
ーーその時…どうしてだか、家から離れた丘の下で九人の男たちが気絶していた。
パンドーラを椅子から引き剥がしたとき、腹に激痛が走った。見てみると俺の腹を貫いたのは折れたボロボロの剣だった。
「その手を離せ…バラが傷つく」知っている男の声が後ろから聞こえてきた。知っていてもきっと、いい思い出じゃない。
「オマエ…ナゼ…」腹の底からこみ上げてくる絶望が、血となって勢いよく口から吹き出した。
言うまでもない。後ろには「あの厄災」が立っていた。
彼は俺の腰を勢いよく蹴り飛ばして、折れた剣を俺の体から引き抜く。俺は床に倒れ込んだ。
早く止血しなければ。苦しみの中でもがきながら、「ファイレット」と小さく呟いた。
ーー古の神の力を持つものは、古の力を持つ者だけが入学を許される「始祖神学校」に通うことが多い。それ故、古の神の力を持つものは完成された質のいい技や能力を使うことができる。彼、「イーアペトス・アレース」もかつてその生徒の一人だった。彼が使った「ファイレット」は世界最高レベルの治癒・再生能力を持つ回復術である。血小板の働きを異常に活性化させるため、止血までの時間が短いことが特徴。傷口の瞬間的な再生ができるわけではないが、上級者ならばどんな重症でも一日で完治してしまうという洗練された術である。
俺は、怯えながら地面を這いずる男を見ていた。またこれだ…。何も感じない。人を殺す。その局面に立たされているというのに…。哀れみも…憎しみも…感じない。
いや……でも…パンドーラさんが泣きながら嫌がっているのを見たときは…なんか…心がザワザワした…気がする…。なんだろう…毛糸がグチャグチャに絡んで解けなくなった…みたいな…。そういえば…あの街でカオスさんの悲鳴を聞いたときも…考えるより先に体が動いていたっけ…。なんだろう…この気持ちは…。
俺は、最後の力を振り絞った男の攻撃を折れた剣で跳ね返しながら近づいて行った。男の上に立ったとき、男は諦めたのか、攻撃をやめた。遺言が言いたかったのかわからないが、小さい声で言った。
「お前は俺と同じだ…お前だって…誰かから奪い続けるうちは…本物の幸せなんて得られるわけねえ……まあせいぜい…苦しんで死ねや…」
少しの間、最初は何も言い返せなかった。でも、心の深いところから少しずつ本音が湧いてきた。
「なぜその言葉を自分にかけてやらなかった…。俺だって、このままじゃいけないってわかってるさ…。殺すことしかできない自分が嫌で…死のうとして自分の首に刃を突き立てたことなんて、森の木の葉の数よりも多いよ…。それでも死ななかったのは、そんなクソみてえな自分と向き合い続けたからだ。そりゃ、アテナさんやカオスさんみたいな立派な人間じゃねえけど…俺は俺なりにやってんだよ…」
その後すぐ、剣を彼の心臓に突き刺した。「どうして俺は最初から心臓を狙わなかったのだろうか」少しだけそんなことを思った。
「ギャァァーー!化け物!」残っていた百姓代のおばさんが、急にこちらを見て叫んだ。そのままひどく怯えながら、おぼつかない足で家の外へ逃亡した。
おばさんが俺を怖がって逃げたと気づいたのは、おばさんが逃げてから十秒くらいの沈黙を挟んだ後だった。
なんでだ…?俺は守ってやったんだぞ…。悪いのは完全にこいつらだろうが…。どこかに…自分が英雄になったと錯覚している自分がいたのだ…。正しいことをしたつもりだった。これでも間違いだというならば、俺はどうすればよかったんだろうか…?
そしてまた、俺の悪魔が何かを囁いた。
気がつけば、全開になったドアに向かって歩き出していた。何がしたかったのか…言葉で表すことはできなくとも、心ではちゃんとわかっていた。
「あの…アルシエル…さん?」アテナさんともカオスさんとも系統が違う可愛らしい声が俺の悪魔の手を引き止めた…。
振り返ると、俺より頭一個分くらい背の低い少女が立っていた。さっきも見た「黒い薔薇」が…。赤く目を腫らし、鼻水を垂らしていた。
「何…」俺はなんとなく、そっけなく返した。
「助けてくれてありがとうございます…」彼女は言葉を詰まらせながらもやっとの思いでそう言った。
「え…うん、まあ…いいよ」発した言葉とは裏腹に、彼女も心の中では俺を化け物扱いしているのではないかと疑い続けていた。
「あの…血…出てますけど…大丈夫ですか…?」彼女は自分が怪我をしているかのような痛そうな顔をして、俺を心配していた。
「ああ…うん…なんでか…なんともないんだ…。少し痛いけど…。」俺は血が流れ続ける胸に手を当てた。手を離すと、真紅に染まった手から、まだ生きている俺の血がゆっくり流れて床に溢れていった。滝のように流れていた俺の血の勢いはもう遥かに弱まり、弱めにひねった蛇口のように弱々しく流れていた。
「アルシエルさん、大丈夫なんですか…?でも出血もひどいようですし、早く止血しましょう。」アテナさんが横から言った。俺はその時、声をかけられるまで二人の顔は見れなかった。百姓代のおばさんに化け物と言われるのはまだいいが、二人にそう言われるのは何故か少し嫌だった。二人のただ俺を心配する顔を見て、俺は少し安心したような気がした。
俺は横になって止血してもらった。止血にはカオスさんの能力がとても効いた。どうやら虚像の空間を作り出して、それを現実に投影できるらしい。傷口付近に空間を張り巡らせれば、一瞬で最強の絆創膏が完成する。それと、アテナさんが俺の胸に手を当てて、術を施してくれた。どんな原理かは教えてくれなかったが、なんか体がポカポカして軽くなった。その後、少し疲れが出たのか、深い眠りについた。
また夢を見た。
「イーアペトス」や「ヴァーリ」とか、今まで殺した何千もの屍の上に立っている夢だ。腕とか髪とかが絡み合って一つの大きな肉の山ができている。その上に男は立っていたのだ。何者でもない…神にも鬼にも見放され、天と地の狭間にできた虚無を駆け回る可哀想な御霊である。故に死ねない。業火に焼かれたあの日も、海の底に沈められたあの日も、心臓を撃ち抜かれたあの日も。そこにやってくる死神さえも男に戦慄し逃げおおせた。
しかし決して、男は死を望んでいたわけではない。虚無で生きることに意味を見出そうとしていたのだ。いや、ただ今までやってきたことが正しかったと信じたかっただけなのかもしれない。はたまた、そうしなければこの世に存在することに耐えられなかったのかもしれない。
イーアペトスとヴァーリが男の足を掴んだ。彼らは血を吐きながら、この世のものとは思えないような声色で「殺してやる…殺してやる…」と男を呪い続けた。
しかし、奇妙なことに、男の目に映っていたのはその二人じゃなかった。
「ア…………カ……」




