第九章 世界の果てでの邂逅
気づけば物音ひとつしない暗闇で天を仰いでいた。体を起こすと、隣の少し離れたところから手を伸ばし、俺の手を静かに握って眠りについているパンドーラさんがいた。アテナさんもカオスさんも、子供達も、フレイヤさんもデュールも、みんな泥のように眠っている。
少し離れたところにある、百七十センチくらいの古い布で巻かれた何かが目に止まった。下の方が黒っぽい液体で染まっていたことから、おそらく俺が殺したイーアペトスなのだとわかった。なんだか少し、目を背けたくなった。
握り締めるパンドーラさんの手からそっと自分の手を抜いた。寝る前のことはあまり覚えていないが、彼女に「かっこいい」とか「好き」とか言われた記憶が高速で俺の頭の中をよぎり、また胸が強く波打った。
俺は一旦そのことを頭の隅に置いておき、立ち上がって家の中をウロウロし始めた。まあ正直に言えば洗面所を探していた。家の中は割れた食器や食べ物、人々が残していった物が荒れたままだったが、通路などは簡単に片付けがされていた。きっとアテナさんとかカオスさんとかがやってくれたんだろう。
洗面所を見つけ、蛇口をひねると水が出た。口を注いだり、顔を洗ったりした。ふと、鏡を見るとそこに映っていたのは何者でもない、ただの人だった。どうしてか今日はそう思った。
「アルシエルさん…?」後ろから寝ぼけた声が聞こえた。俺は思わず肩をビクッと動かした。
振り向くと、暗闇の中に眠そうなアテナさんが立っていた。
「あぁ…お…おはようございます…」アテナさんの顔を見たとき、なんだか…何か後ろめたくなった。たくさんの敵を殺した…こと…。
「おはよう。」しかしアテナさんは、何もなかったかのようにそう言った。
「怪我はもう大丈夫そう?」
「ええ…なんとか…おかげさまで…」
「そうですか…よかったー」彼女はほっと息を吐いてそう言った。
「あの…」俺は思い切って昨日のことを聞いた。
「俺…怖かったですよね…村の人たちもみんな俺を恐れていたみたいですし、たくさんの人を殺してしまった…。」俺は思わず目を逸らして俯いた。
アテナさんは少し黙ってからゆっくり喋り出した。
「怖い?そんなわけないじゃないですか。あなたは命をかけて守ってくれたんですよ。それとも万が一、あなたが恐ろしい怪物のようなものだとしたらおかしいですよ。どこに子供を守ろうと火の中に飛び込む怪物がいるんですか。」笑い混じりのその声がなんだかとても暖かかった。母親の腕に抱かれて眠る赤子のような。俺はそんな優しさに包まれていった。
「あの、昨日は言えなかったんですけど、私たちを助けてくれてありがとうございました。」彼女は頭を深く下げた。
「………うん…こちらこそ…ありがとう…」体の力が一気に抜けていくのがわかった。きっとアテナさんやカオスさんに今度こそは嫌われてしまうのではないかと強く心配していたんだ。このとき俺は自分の中にある辞書の「人間」という言葉の語義が書き変わっていたことに気がついた。
その後、アテナさんと部屋の片付けをした。庭から天井を見上げると、あることに気がついた。ここに来たときはまだ、この空洞の中にぶら下がってた光る玉のおかげで明るかったが、今はもう消えていて真っ暗だな。
そう思ったとき、どこからか、心地の良い滝の流れるような音が聞こえてきた。
「なんだ…この音…?」
「ああ…多分放水ですね。」散らかった皿の破片を拾っていたアテナさんが言った。
「アルシエルさんが寝てるとき、もう一度ちゃんとパンドーラさんやフレイヤさんに、この村のことを聞いたんです。その時に言ってたんですけど、オオクニヌシくんのお父さんのオケアノスさんが水や大洋を司る神を宿しているらしく、毎朝五時になると農作物へ放水を始めるらしいですよ。」
ーーこの星では一日を十八区分に分けている。一日はおよそ地球の二十六時間程である。よって、この星の一時間は地球の一時間半程度。この地域は北半球の中緯度帯に属するので、もう外では日はとっくに昇っている。
「そうなんですね…そう言えば火傷をした子供たちは無事でしたか?」俺は必死に話題を探して聞いた。でもこの話題は案外すぐに見つかった。
「あぁ…アルシエルさんが子供たちを炎から守ってくれたので大事には至りませんでした。昨日のうちにみんな意識を取り戻しましたよ。でも火傷は酷いので、村にいる医師に治してもらえるのではないかと…」
「そうか…それはよかった…」
静かな部屋で二人の声は流水の音に消されていった。その会話を聞いたものは、彼ら以外に存在しない。
その後、一時間くらいアテナさんと一緒に部屋の片付けを進めた。話を聞くところ。どうやらデュールさんも無事らしい。
すると、パンドーラさんやカオスさんも起きてきた。
「おはよー、アテナちゃん、シエル。てか今何時?」カオスさんがあくびをしながらこちらへ歩いてきた。
「おはようございます。六時くらいですよ。」アテナさんが答えた。
「うげ…めっちゃ寝てんじゃん…まあいっか。あーよく寝た。」
カオスさんは相変わらず朝からテンション高いなと思った。
「あの…アテナさん、アルシエル…さん…おはようございます。」次はパンドーラさんがそう言った。彼女はあまりこちらを見てくれなかった。ていうか俺も気まずくて彼女をあまり見れなかった。本音を言うとこの一時間ぐらい彼女が起きたらどうしようか、なんて言おうかなんてずっと考えてしまっていた。
「パンドーラさんもおはようございます。」アテナさんは満面の笑みで挨拶をした。昨日の惨劇がなかったかのように。
カオスさんが顔を洗って戻ってくると、彼女は急に真剣な顔をして僕らに言った。
「昨日、百姓代のおばさんが言ってたことだけど、僕はこの村には残らない。どうやらやっぱり、もう復神教の中で僕がしたことも、顔も割れてるっぽいし、帝国軍と復神教が癒着してるなんて、僕を狙ってる勢力は思ったより大きいみたいだ。いつまた襲撃されてもおかしくない。だから僕はどこかに身を移そうと思う。なので…ここでお別れです…。」
「そんな…でも一人じゃ危ないです…」アテナさんは残念そうな顔をして、切れて包帯が巻かれた左腕の上腕に手を当てた。そこから下は虚無が垂れている。
「それはそうだけど…二人を危険な目には遭わせたくない…。二人だから…遭わせたくない。短い間だったけど、二人と旅ができたひと時は、とっても楽しかった。ありがとうございました。」
昨日はもっと声に生気があって快活に話していたのに、今日の声は弱り、掠れている。まあ昨日のことがあっては無理もない。
自分が言っていることが矛盾してることなんてわかっていた。シエルに「一人で生きていけると思っているの?」と言っておきながら、結局こんな決断しかできなかった。決して頼るのが申し訳ないからとか、面倒くさいからとか、そういうわけではない。ただ、二人には生きていてほしいと、心から思ってしまった。シエルは強いからなんとかなるかもだが、アテナちゃんは左手も失ってしまったし、そうもいかない。
さらにその裏では、自分がシエルを、自分とアテナちゃんを守ってもらうために説得したのではないかという、自分勝手な罪悪感から逃れたかったという思考が静かに心を蝕んでいた。
きっと、このまま一人で復神教から逃げようとしても、すぐ捕まってしまうだろう。「でも、もう…それで…いいのかもしれない…。僕なんてもう…」心のなかでそれを唱えきる前に、考えるのをやめた。
アテナちゃんとシエルはただ黙り続けていた。でも、髪の長い巫女は俯き、髪の黒い軍人はボーッと僕を眺めていた。
そう言えばずっと気がかりだったことがある。僕はどうしてシエルを信用できたのかということだ。尊敬に値するアテナちゃんが信頼したからだろうか。じゃあ、アテナちゃんは何で会ったその時に彼を信頼したのだろう。そういえばパンドーラさんも昨日、シエルが起きるのをアテナちゃんと一緒になって待ってたな。
なんか、放っておけないんだよな…。
僕が感謝を伝えて頭を下げると、軍人の男が言った。
「そうか…まあいいんじゃね…?でも、俺もついていくぞ。」
「え?」僕は素早く顔を上げた。聞き間違えなんじゃないかと思ったからだ。
「俺もここには居られない。村の人たちは俺を恐れているみたいだからな。」シエルはいたって冷静に話した。
「いや…でも…」
「そもそも、一人じゃ生きていけないなんて言ったのはあんただろ。それに、あんたらにあってから、俺も少し変われた気がするんだ。前までは自分そのものを否定して、前を向くことさえも諦めていたけれど、もう少し頑張ってみたい。今は、俺がなんで神の力がなくなってしまったのか知りたいんだ。」
そう言うとシエルは神の力がないことを、パンドーラさんがいる場で言ってしまったことに気がつき、辺りを見回した。
「でも…そしたら僕についてくる必要は…」
僕がそう言うと、シエルは腕を組んで、ため息を吐いて言った。
「だから、あんたは一人で生きていけんのかよ。俺が復神教から守ってやるから、復神教のこと、もっと教えてくれよ。『神の死』の手掛かりになるかもしれない。俺の神についても、四年前に死んだ『主の神』についてもな。」
シエルが言った後、ずっと黙っていたアテナちゃんが口を開き、畳み掛けるように僕に言った。
「そうですよカオスさん。確かに私たちは境遇も何もかも違い、まだ昨日会ったばかりの他人のようなものですけど、身寄りのない三人が大陸の果てで出会うなんてこんなの、きっと神様がくださった最高のご縁に決まってます。私もこの村には残れません…。デュールの弟さんが言ってましたが、私もどうやらお尋ね者になってしまったみたいですし…。私も同行させてください。」
僕は昨日、必死こいてシエルを諭したくせに、その言葉に一片の責任も持てていなかった。ただ、アテナちゃんが可哀想だったという、そんな無責任な理由で…。なんて自分勝手で浅はかなんだろうか。そのくせ勝手に別れを告げて、さらには逆に二人に諭されるなんて…。
でも、もう…こんなこと…やめたい…。
少しの間、なんだかぼーっとした。きっといろいろ考えすぎたせいだ。
「ごめんなさい…昨日シエルに言ったことなのに…」
するとアテナさんが僕の手を握って言い、優しく微笑んだ。
「いいえ、私たちのことを考えてくれてありがとうございます。」
女神すぎるだろ!ってそう思った。でもやっぱり、二人への申し訳なさがとめどなく込み上げてくるのだった。
「お前ら、大事な話するんだったらエンピローグの前ですればいいだろ」
明らかに寝起きの悪そうな重低音が後ろから聞こえた。
振り向くと、足のおぼつかないデュールさんが、エンピローグを持ってこちらに歩いてきていた。
「デュールさん、大丈夫ですか?まだ寝てた方が…」
僕は今にもこけそうなデュールさんが心配でそう声をかけた。
デュールさんは手前にエンピローグを置いて、ほらほらと僕たちに座るように促した。
三人でエンピローグの周りに座り、向かいあった。
「あの…で…本当に二人はついてくるんですか…?」
「当たり前です」アテナちゃんが真剣な顔で言う。
「でも…どこに行こうかとか考えてないし…」僕はか細い声で言った。
「それを決めましょうよ。これから何をするか。どこへいくのか。」
「カオスさんはどうしたいんですか?教会に戻りたいんですか?」
「いや…僕は…何がしたいんだろう…」
自分でも、これからどうしようとかは考えていなかった。教会にいた時でさえ、やりたいこともなく、いつかアテナちゃんに会うこと。それくらいが目標だった。目標が叶ってしまった今、追われる身になって、それから逃げようとしているものの、生き延びて何をしようかなんて微塵も考えていなかった。
「でも、どうしたらいいかわからなかったり、したいことがなかったら、探せばいいと思いますよ。旅の中できっと見つけられることもあると思います。例えば……オオクニヌシくんとの出会いみたいに、いろんなものに出会えますし。」
アテナさんがそう言った時、頭のどこかで、するすると流れていた電気信号が止まった。それはやりたいことと言えるほど立派なものではなかったが、確かに自分の思考としてしっくりくるものだった。
「あ…子供たちを…守りたい…」
「子供たち?」
「ええ…神が死んでから、子供の死亡率が格段に伸びているらしいんです。実際…オオクニヌシくんは誘拐されていましたし、火傷を負った子たちも…。神入りの失敗率が増えたり、誘拐が増えたり…そういう子供たちを救いたいんです…」
エンピローグの前だと隠していた心の内までずるずると芋ずる式に話してしまう…。
するとアテナちゃんが嬉しそうな顔をして快活に語った。
「なるほど…。いいですね!実は私も、そういった悲惨な境遇の子供たちを見てきましたし、神様が死んでからずっと、この現状をどうにかしたいと考えていたんです。きっと私が死んだ神様を生き返らせてみせる!なんてのはまだまだ力不足かもしれませんが、そのための力になりたいと思っていたんです。」
「やっぱりアテナちゃんはすごいね」
「別にそんなことはないけど」アテナちゃんは少し恥ずかしそうに笑った。
この人はどこまで崇高な精神を持っているのだろうか。凄すぎて妬むこともできない。ただただ尊敬の念が増していく。でもその度に、アテナちゃんが遠い存在になっていくように感じた。
アテナちゃんは次は横を向き、シエルに向かって話だした。
「アルシエルさんはどうしたいですか?」
シエルは顔を少し前に突き出し、小さな声で言った。
「俺は…さっきも言ったが、なんで俺の神が死んだのか知りたい…」
シエルがそう言った後アテナちゃんは右手を顎に当て、何かを考え始めた。
少ししてからアテナさんは神妙な面持ちで口を開いた。
「じゃあ三人で死んだ神を蘇らせませんか?」
「え…?」シエルと僕は同時に声を出した。
「あ、いや、そうですよね。馬鹿らしいですよね。」
アテナちゃんは焦りながらそう撤回したが、なんだか少し悲しそうな顔をしていた。
意外なことに、シエルが急に口を開いた。
「いや…乗ってもいいかもしれない。実際、俺の神が死んだのに関係している可能性は大いにある…というより…それ以外つてがないからな…」
するとアテナちゃんは自分で言ったことなのに、目を大きく開けて驚いた顔をしていた。でもだんだんとその顔には喜びの光が満ちていくのがわかった。
「そうだね、子供たちを守るには根本的な原因を取り除かないと。僕に何ができるかわからないけど、協力できることはさせてもらうよ。」
その後、アテナちゃんは何度も僕たちにありがとうと繰り返した。僕たちは共に、四年前に死んだ神を蘇らせるべく、旅に出ることにした。




