容疑者十・金井明③
柊は思ったことを直ぐに口にしてしまう、ある意味、素直な男だ。
「は、はあ・・・」金井は複雑な表情を浮かべた。
「そう言えば丘の上のお屋敷を阿房宮って名づけているらしいですよ。あれも漢籍からの知識だとか」
「阿房宮?はは、彼女らしい。阿房宮は秦の始皇帝が天下統一後に、新たに築いた宮殿でした。結局、始皇帝が生きている間には、完成しませんでした。始皇帝の死後、劉邦と天下を争った項羽により焼き払われています。宮殿が焼ける炎は三ヶ月の間、燃え続けたといわれています。よほど、巨大な宮殿だったのでしょうね」
「東城社長は巨大な屋敷を自慢したかったのですかね?」
「そうではないでしょう。自分の栄華なんて一瞬のものに過ぎない――そういうはかなさを、阿房宮と名付けることで表したかったのだと思いますよ。そうそう刑事さん、ここが何故、呪い谷と呼ばれているか、訳をご存知ですか?」
「さあ、知りません。興味もありませんがね」
「はは、そう言われると、話が続きませんね」
「東城社長と係わりのあることでしたら、話してもらって構いませんよ」
「どうにも話し難いなあ。ここではね、風花と言って、晴れているのに雪が降ることがあるのです。天気雨の雪版だと思ってもらえば結構です。それが朝焼けや夕焼けと重なると、雪が真っ赤に見えるのです。その赤い雪が降るのが不気味だと言われ、呪い谷と呼ばれるようになったというのが由来のひとつになっています。昨日の朝も、その風花が降りました。初めて見ましたが、不気味なものでした。東城さんが殺されたと聞いた時、あの赤い雪が真っ先に頭に浮かびました」
「ああ、そうですか」柊の反応は薄い。この手の話が苦手なのだ。
「もう、ひとつ由来があって、刑事さん、新田義興という人物をご存知ですか?新田義貞の次男になります」
「ああ、新田義貞なら分かります。太平記ですよね?」
「新田義貞は後醍醐天皇による建武の新政の立役者の一人です。地元、群馬が生んだ英雄の一人です。源氏の一族で、太田市あたりの新田荘の荘官に任じられたため、新田氏を称しました。新田義貞は鎌倉幕府を攻め落としましたが、足利尊氏と対立し、後醍醐天皇の南朝方につきました。楠正成と共に、一度は足利尊氏を九州に追い落としますが、その後、勢力を盛り返した尊氏軍に敗れ、敗走します。最後は越前で戦死しています」
「その次男坊が何か?」
「いえね。義興は父親の死後も足利幕府に抵抗を続けます。尊氏の子で鎌倉公方だった足利基氏は、竹沢右京亮という人物に義興の討伐を命じます。そこで、竹沢は少将局という美女を与え、義興が油断した隙に謀殺しようとしました。史実では義興は多摩川の矢口渡しで謀殺されています。ところが、ここ呪い谷には新田義興にまつわる別の伝説があるのです」
長引く歴史の講釈に、柊は退屈そうだ。
「ご興味が無さそうなので、簡単に言いますが、新田義興は少将局を伴って、ここ呪い谷に湯治にやって来ます。少将局はそのことを密かに竹沢に伝えました。竹沢は急ぎ義興討伐の兵を差し向けます。何も知らない義興は呪い谷の湯殿で、丸裸のところを惨殺されました。
湯殿で襲われた義興は『さても卑怯なり!例えここで命尽きようとも、悪霊となってお前たちを呪ってやる!』と叫んだという言い伝えがあります。
ここは上杉謙信にちなんで、上杉湯と名乗っていますが、かつては呪い湯と呼ばれていたそうです。ここで新田義興が惨殺されたのです」
「そうですか。ここの温泉に入るのが、嫌になりますね」
「ええ、だから上杉謙信が湯治に来たと言う史実はありませんが、上杉湯と名前を変えたのでしょうね」
「東城社長と関係のないお話でしたが?」
「ああ、すいません。昔、彼女が少将局のことを、貂蝉のようだと言っていたのを思い出したものですから、長々と新田義興の話をしてしまいました」
「貂蝉ですか?知りませんね」
金井が「貂蝉のこと、説明してもよろしいでしょうか?」と尋ねると、「簡単にお願いします」と柊に釘を差された。
「貂蝉は『三国志』に登場する絶世の美女のことです。後漢末、皇帝の権力が衰えると、董卓という人物が権力を握ります。後漢の高官だった王允という人物が、横暴の限りを尽くす董卓を排除するために、娘の貂蝉を董卓と彼の有力な武将だった呂布という人物に近づけます。貂蝉の美貌に目がくらんだ二人は彼女を巡って争い、仲たがいを始めます。結局、董卓は呂布に殺されてしまいます。
新田義興を謀殺するために、彼のもとに送られた少将局と貂蝉は、どこか似たところがある――そう彼女は言っていました。ここに来ると、色々なことを思い出します」
「東城社長と昔話をすることができたのですか?」
「刑事さん。先ほど、彼女と会う前に、事件が起きてしまったと言ったはずです」
「そうでしたか?まあ、東城社長はこちらに来て直ぐに殺害されたようですので、誰とも会えていないようです」
「そうなのですね。私はてっきり、避けられているのかと思いました」
「やましいことは無かったのでしょう。東城社長があなたを避ける理由はなかったのでは?」
「刑事さん。彼女と別れてから、もう二十年ですよ。月日は残酷なものです。会うと、彼女を失望させてしまうのではないかと、私は怖かった。私が知っている彼女は、高校生のままなのですから。彼女だって同じように考えたかもしれません。女性なら、尚更でしょう」
「そう言うものですかね」その辺の微妙な機微は柊には分からない。
「いいです。忘れて下さい。刑事さん、もうひとつ、お教えしておきましょう。ここには私なんかより、余程、怪しい人物がいます。今、ここ、呪い谷に帰って来ていると聞きました。彼はきっと、私より、彼女のことを恨んでいたと思います」
「ほ、ほう~それは面白い。その怪しい人物とは誰のことでしょうか?」
怪しい人物がまた浮上してきた。




