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新京の空に最初に異様な音が聞こえたとき、それが航空機のものだと気づいた者は多かった。だが、空を見上げた者のほとんどが、そこから先で理解できなくなった。
双発機だった。
少なくとも、遠目にはそう見えた。左右の翼端に巨大な発動機らしいものが一つずつあり、そこから大きな回転翼が伸びている。しかし、その姿は満州国の空を飛ぶどの航空機にも似ていなかった。胴体は太く、機首は丸みを帯び、翼端の巨大な機構ばかりが不釣り合いなほど目立っている。機体には日の丸が描かれていたが、それを見ても人々の疑問は解消されなかった。日本軍の新型機なら、なぜ誰も知らないのか。試験飛行にしては、新京の上空へ突然現れる理由が分からない。
街路では人々が立ち止まった。人力車の車夫まで足を止め、乗客と一緒になって空を見上げた。自動車が道路脇へ寄り、商店から店員が出てくる。制服姿の警察官が見上げている横で、学生たちが指を差した。誰かが新型の日本軍機だと言い、別の者は外国機ではないかと言った。日の丸を見つけた者が日本機だと声を上げたが、それなら機種は何だと聞かれると答えられなかった。
オスプレイは速度を落としていた。
その変化を見た者たちが、さらにざわめいた。翼端の巨大な回転翼が、ゆっくりと向きを変え始めたのである。前方を向いていたものが上を向き、航空機は目に見えて速度を落としていった。それでも失速しない。それどころか、ついには空中の一点に留まったように見えた。
新京の人々が見守る中、航空機はそのまま高度を下げ始めた。
飛行機が飛行場へ向かわず、空中で止まり、垂直に降りていく。
それだけで十分だった。
電話が鳴り始めた。
警察から満州国の関係機関へ報告が入り、軍関係者にも連絡が飛んだ。飛行場では予定されていない航空機の飛来に兵が走り、双眼鏡が向けられた。日本軍機らしい。しかし機種不明。所属不明。事前連絡なし。しかも滑走路へ進入しようとせず、回転翼を上へ向けたまま降下してくる。
報告は関東軍司令部にも届いた。
「機種は?」
「不明です」
「国籍は?」
「日の丸を確認しています」
「陸軍機か」
「照会中ですが、該当する機体がありません」
「海軍は?」
「そちらも確認できません」
当直将校は報告を聞きながら眉を寄せた。新型機の存在そのものなら、軍内部で知らされていないことが絶対にないとは言い切れない。しかし、新京へ予告なしに飛来する理由が分からなかった。まして見張り員の報告では、その航空機はほとんど停止した状態から垂直に降下しているという。
「着陸させるのか」
「いまのところ敵対行動はありません」
「戦闘機は?」
「待機させています」
「撃つな。正体を確認するまで撃つな」
命令が飛んだ。
関東軍司令部でも混乱は続いていた。(*注1)梅津美治郎大将のもとには、飛行場から送られてきた書類の写しと報告が届けられた。梅津はこのとき59歳。軍帽を取った頭には短く刈った髪が残り、額は広く、細い眉の下に小さな目があった。頬から顎にかけて肉のついた丸みのある顔で、鼻の下には短く整えた口髭を蓄えている。華奢な人物ではなく、軍服の襟元まで詰まった姿には年齢相応の重みがあった。机に向かって報告書を読む間も表情の変化は少なく、紙面から目だけを上げて報告者を見た。
その近くには参謀長の(*注2)吉本貞一中将がいた。梅津よりいくらか若く、梅津の丸みを帯びた顔とは対照的に、吉本は頬の線が締まり、眼鏡の奥から相手を見定めるような視線を向けていた。参謀肩章を付けた軍服にも乱れはなく、報告を聞きながら何度も手元の紙へ目を落としている。ほかの参謀たちも長机を囲んでいたが、梅津がほとんど身じろぎせずに報告を聞くのに対し、吉本は数字や固有名詞が出るたびに紙面を確かめていた。
「日本国政府とは何だ」
幹部の一人が書類を見ながら言った。
「政府なら東京にある」
「内閣総理大臣、高畠君枝。該当者なし」
「女だというぞ」
「ふざけているのか」
「飛行機を見ても、まだそう思うか」
その一言で声が止まった。すでに複数の将校がオスプレイを直接確認している。あの航空機を、この芝居のためだけに用意したとは考えにくかった。
梅津は書類を机へ置いた。
「日本人であることは間違いないのか」
「少なくとも言葉、姓名、所持品を見る限りでは」
「武器は」
「携行していません。ただし航空機内については十分な確認をしておりません」
「何をしに来たと言っている」
「説明したい、とだけ」
梅津はしばらく何も言わなかった。やがて太い指で書類の端をそろえた。
「ならば聞こう」
そのころ、満洲映画協会にも妙な飛行機が現れたという話が伝わっていた。(*注3)甘粕正彦は窓際に立ち、遠ざかっていく異様な飛行音へ耳を傾けていた。50歳になった甘粕は、軍人だったころの写真に比べれば顔にも年齢が刻まれていたが、痩せ気味の身体を背広に包み、髪をきちんと後ろへ撫でつけていた。丸い眼鏡の奥の目が、窓の外から報告を持ってきた男へ移った。小柄な身体と物静かな姿だけを見れば、関東軍司令部の将官たちのような威圧感はない。しかし、相手の話を途中で遮らず聞いている間にも、その視線だけはほとんど動かなかった。
「日本軍の新型機だそうです」
甘粕はすぐには答えなかった。
「陸軍の?」
「そこまでは」
「では、新型機だと誰が言った」
相手は答えられなかった。
甘粕は眼鏡の位置を指先で直し、もう一度窓の外へ顔を向けた。この満州では、正式な発表より早く情報が流れることなど珍しくない。軍の新しい動き、官僚の人事、東京から届く指示。それなのに、あの航空機については何も聞いていなかった。
「どこから来た」
「分かりません」
「搭乗者は?」
「それもまだ」
甘粕は窓から離れた。
「調べてくれ」
「軍へですか」
「軍に聞いて分かる話なら、もう誰かが教えてくれているよ」
それ以上は言わなかった。
だが甘粕には、単なる新型機の飛来とは思えなかった。
(*注1)梅津美治郎1882年〈明治15年〉1月4日 - 1949年〈昭和24年〉1月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功二級。関東局で満洲国駐箚特命全権大使を務め、極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。1978年(昭和53年)に靖国神社に合祀される。
(*注2)吉本貞一1887年(明治20年)3月23日 - 1945年(昭和20年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大将。従三位勲一等功二級。陸士20期、陸大28期恩賜卒。
(*注3)甘粕正彦1891年〈明治24年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代にアナキストの大杉栄や伊藤野枝らを殺害した甘粕事件で知られる。事件後、短期の服役を経て日本を離れ満洲で関東軍の特務工作を行い、満洲国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦の直後に現地で服毒自殺した。Wikipediaより抜粋




