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その報告が東京へ届いたころ、高畠は官邸の執務室にいた。
机の上には、朝から積み上がった報告書がいくつもの山を作っていた。国外通信、食料、燃料、金融、在外邦人、国内に滞在している外国人、航空、海運、発電、医薬品。どれを取っても一国の政権を揺るがしかねない問題だった。
しかし高畠は、その中の一枚だけを両手で持っていた。
南雲機動部隊、攻撃行動中止。
反転を確認。
続いて潜水艦部隊についても、攻撃停止を確認しつつある。
高畠は何度も同じ行を読み返した。
やがて紙を机へ置いた。
背もたれに身体を預ける。
目を閉じた。
長い息が口から漏れた。
周囲にいた官房長官や秘書官たちは何も言わなかった。
高畠自身にも、まだ成功したという実感がなかった。
昨日までなら、1941年12月8日に何が起きるのかは決まっていた。
日本海軍の航空機がオアフ島へ押し寄せる。真珠湾が攻撃される。アメリカが日本との戦争へ入る。そして、その先に続く出来事まで、学校の教科書にも歴史書にも書かれていた。
その最初の一つが、なくなった。
「……真珠湾攻撃は、起きないんですね」
高畠が確認するようにつぶやいた。
防衛大臣が答えた。
「現時点で確認できている限りでは」
高畠は目を開いた。
「現時点?」
「まだ全参加部隊から確認が取れたわけではありません。ただ、機動部隊は反転しました。潜水艦についても作戦中止が伝わっています」
高畠は小さくうなずいた。
その顔に浮かんだ安堵は、ほんの数秒しか続かなかった。
「では、次です」
身体を起こした。
「アメリカとの交渉を始めます」
外務大臣がすぐに反応した。
「ハワイの代表団から正式な接触の報告を待ちます。ワシントン側へ話が上がれば、向こうからも何らかの要求が来るでしょう」
「待っているだけでは駄目です。こちらも準備してください」
高畠は机上の資料を引き寄せた。
「真珠湾を止めることと、日米関係を立て直すことは別問題です。戦争を十一日先延ばししただけでは意味がありません」
室内の空気が再び引き締まった。
外務省へ新しい指示が飛んだ。
1941年11月現在の日米交渉を改めて洗い直す。ハル・ノートに至る経緯、野村吉三郎、来栖三郎両大使の交渉、アメリカ側の要求、日本側の要求を整理する。現代日本政府として1941年アメリカへ何を約束できるのか。逆に何については1941年の日本政府や軍部との協議なしに約束できないのか。外務省だけでなく、財務、経済産業、農林水産、防衛など関係省庁からも人員が集められた。
さらに問題になるのが未来情報だった。
アメリカ側が未来について質問してくることは間違いない。
戦争の結果。
ドイツ。
ソ連。
中国。
兵器。
科学技術。
そして1941年の人間にとっては、まだ起きていない無数の出来事。
どこまで話すのか。
高畠は外務省に、代表団が開示できる情報とできない情報を改めて整理するよう命じた。
「現地判断だけには任せないでください。一度教えた未来は取り戻せません」
今度は誰も異論を挟まなかった。
官邸では次々と人が出入りし始めた。真珠湾攻撃阻止のために動いていた政府が、その日のうちに1941年アメリカとの外交関係を築くための政府へ姿を変えようとしていた。
高畠の前にも新しい資料が置かれた。
1941年のアメリカ政府要人。
フランクリン・D・ルーズベルト。
コーデル・ハル。
ジョージ・マーシャル。
ハロルド・スターク。
そのほか、現代日本の政治家なら歴史上の人物としてしか知らなかった名前が並んでいる。
高畠は資料をめくる手を止めた。
これから、この人々と実際に交渉することになる。
歴史書を読んで対策を立てることはできる。
しかし、その歴史書に書かれている未来は、もう起こらない。
南雲機動部隊が反転した瞬間から、1941年11月28日以降の歴史は少しずつ未知の領域へ入り始めている。
そこへ防衛省から新しい連絡が入った。
防衛大臣が報告を受けた。
最初は黙って聞いていたが、その表情がしだいに険しくなった。
高畠が気づいた。
「どうしました?」
防衛大臣はすぐには答えなかった。手渡された紙へ目を落とし、内容を確認してから顔を上げた。
「潜水艦部隊についてです」
「全部止まったんじゃないんですか」
「ほとんどは」
その言葉で、室内が静かになった。
「一隻だけ、確認が取れていません」
高畠の表情から安堵が消えた。
「どこにいるんです?」
「Pー1が先に確認した位置から推定しています。ただ、その後の位置が確定できていません」
「作戦中止の無線は?」
「送っています」
「なら、どうして」
防衛大臣は報告書へもう一度目を落とした。
「無線機に故障が発生している可能性があります」
高畠は何も言わなかった。
「その潜水艦だけが、作戦中止を知らないまま行動を続けている可能性があります」
机の上には、つい先ほどまで高畠が握っていた報告書が残っていた。
南雲機動部隊、反転。
潜水艦部隊、攻撃停止。
真珠湾攻撃回避。
そのすべての文字が、たった一隻の所在不明艦によって再び不確かなものになった。
高畠はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「探してください」
防衛大臣がうなずいた。
「すでに捜索を開始しています」
「絶対に見つけて」
高畠は太平洋の地図へ目を向けた。
広大な青い海のどこかを、攻撃中止を知らない一隻の日本潜水艦が進んでいる。




