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途中、開いた扉から居住区画が見えた。狭い空間に寝具がまとめられ、個人の持ち物らしい袋や衣類が収められている。現代の艦艇と比べれば、個人に与えられた空間は驚くほど少ない。そこで何千人もの人間が食べ、眠り、働きながら太平洋を横断している。
大佐は通路を行き交う水兵たちを見ながら、これまで頭の中で「南雲機動部隊」と一つの単位として扱っていたものが、少しずつ別の姿を持ち始めるのを感じていた。
南雲機動部隊。
航空母艦六隻。
護衛艦艇。
艦載機。
真珠湾攻撃。
防衛省の会議室では、すべて地図上の記号と数字だった。
しかし、ここには飯を炊いている兵がいる。機械を直している兵がいる。洗濯物を抱えて通路を歩く兵がいる。故郷から届いた手紙を持っている者もいるだろう。その中には、未来日本で暮らす誰かの祖父や曾祖父もいる。
自分たちが止めようとしているのは、歴史上の艦隊ではない。
この人間たちが十一日後に行おうとしている行動なのだ。
やがて一行は上へ向かう階段へ導かれた。
飛行甲板へ出ると、北太平洋の冷たい風が一気に吹きつけてきた。艦内の油臭い空気に慣れかけていた肺へ、冷えた潮の匂いが入り込む。飛行甲板は海面から見上げたとき以上に広く感じられた。艦首から艦尾まで長大な平面が伸び、その上では整備兵や航空兵が動いている。
そこにも零戦があった。真珠湾攻撃当時、赤城の飛行甲板にA6M2零戦が存在したことは後世の写真にも残されている。
海自隊員たちはその実物の横を通った。
翼。
脚。
プロペラ。
操縦席。
どれも驚くほど小さく、簡素に見えた。
それでもこの時代には、世界でも有力な艦上戦闘機だった。
甲板の端から海を見れば、周囲にも艦艇がいた。遠くには別の航空母艦の飛行甲板が見え、そのさらに外側には護衛艦艇が白い航跡を引いている。レーダーを持たない艦隊は、周囲へ艦艇を広く配置して目で敵を見つける必要があった。後世の記録にも、機動部隊が護衛艦を空母から距離を取って配置し、視覚による早期警戒を行っていたことが残されている。
その光景の中に、USー2だけが異物のように浮かんでいた。
海面に青と白の巨大な艇体が見える。
あれだけを見れば、海自隊員たちにとって見慣れた現代日本の機械だった。
その周囲はすべて昭和十六年だった。
再び艦内へ入った。
今度は、それまでより人の出入りが少ない区画へ導かれた。通路に立つ兵の姿勢も違う。案内役の将校が何度か立ち止まり、先へ連絡を取った。海自側の一行も自然に表情を引き締めた。
大佐は制服を整えた。
同行者もそれにならった。
彼らが持ってきた書類は、何度も確認されていた。高畠首相の名で作成された文書。現代日本国政府の存在を示す資料。そして真珠湾攻撃について、政府が旧日本海軍へ伝えることを認めた最低限の情報。
最後の扉の前で止まった。
そこには先ほどまでの水兵とは違う、高級将校たちが待っていた。
海自側の大佐が敬礼した。
相手も答礼した。
その中の一人に、大佐は見覚えがあった。
もちろん会ったことなどない。
写真で見たことがあるだけだった。
(*注1)草鹿龍之介少将。
南雲機動部隊の参謀長である。
写真の中では歴史上の人物だった男が、目の前で呼吸をしていた。
草鹿は海自側の一行を順番に見た。見慣れない制服、見慣れない階級章、持ち込まれた鞄、そしてその向こうにいる自分と同じ日本人の顔を、ひとつひとつ確かめるように眺めた。
やがて草鹿が身を翻した。
扉が開かれた。
その奥に一人の男がいた。
(*注2)南雲忠一中将だった。
海自隊員たちが入室する。
大佐は部屋の中央まで進むと立ち止まり、姿勢を正した。
南雲も無言で未来から来た一行を見つめていた。
十一日後に真珠湾を攻撃するはずだった艦隊の司令官と、それを止めるため八十年以上後の日本からやってきた海上自衛官が、初めて向かい合った。
(*注1)草鹿龍之介少将。1892年〈明治25年〉9月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月23日)。日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校24期。最終階級は海軍中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。
(*注2)南雲忠一中将。1887年〈明治20年〉3月25日 - 1944年〈昭和19年〉7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。位階は正三位。
Wikipediaより抜粋




