3
昨日はクリニックを受診して、夜寝る前に飲むよう処方された薬を飲んで寝た真凜だったが、今朝はいくらか調子が戻っているように感じた。
効果があったのか、それともただ単に調子が戻ってきただけなのか。
「まぁ漢方薬だしね。一回飲んで効くってもんじゃないよね」
効果がないならないでまた先生に会える。それならそれでもいいかも、と思った真凜であった。
相変わらず、優しかった。患者に対してなので当たり前と言えば当たり前だが、嫌な医者もいる。その点、晃輔は親しみやすく、優しいドクターと言えるだろう。
こんなハッキリしない症状でもちゃんと診てくれる。真凜はそれが嬉しかった。
────────────────────────食ベタイ。
「そう、食べたい。いや、違うなんで先生食べるのよ。あ、でもお腹すいたかも」
よくわからない思考にツッコミを入れる。
処方された薬は食前薬なので、食事前に飲む。顆粒タイプの薬なので細かい苦い粒が口の中に広がって、一口では全部流し込めない。コップの水を一杯飲んで何とか口の中のつぶつぶを喉の奥へ流し込んだ。
飲み終わるとふわっと少し気分が楽になるような気がする。
それだけでも今の真凜には十分だった。
「にが。でもやっぱりちょっと落ち着くかも?飲んでそんなすぐ効かないか。やっぱ気持ちの問題なのかなぁ」
この症状は。そんなことを思いながら、食卓につくと母親がトーストと紅茶を出しながら真凜に言った。
「なに?風邪ひいたの?大丈夫?」
「ちょっと頭が重いだけ」
そう言ってトーストに齧りついた。
「そう。気をつけなさいよ。で、今日も食べるの?」
母親が聞いてるのはトースト以外のものだ。
「食べる」
「はいはい」
母親は想定していたようで、簡単な生野菜のサラダを出すと、ササッとハムエッグを作った。
それに今日はデザートにヨーグルトもついている。
真凜はそれらを全て平らげると、洗面所へ行って歯を磨く。磨きながら空いている反対の手で前髪をかき上げる。鏡で見た限りだと、まだそこまで出っ張ってはいない。
──少し引っ込んだ?
顔を洗う。触ると相変わらずおでこの出っ張りは主張している。
──やっぱり気の所為か。
前髪は今日も下ろすと決める。このままずっとおでこ出せないのかな、と真凜は心配になった。
会社について着替えて自分の席に着くと隣の鹿山は珍しく出勤していた。
「おはようございます、鹿山先輩。今日は早いですね」
晶湖は鞄を置いて鹿山に挨拶をする。
「上村さんおはよう。体調どう?」
鹿山はパソコンでメールをチェックしながら目線だけを真凜に向けた。
「ちょっと風邪っぽい感じですけど、大丈夫です」
真凜も席に座りすぐパソコンに電源を入れる。
「そう。無理しないでね」
それからいくつかの添付書類を出力していく。
「ありがとうございます」
晶湖もメールをチェックし始める。
「それから、悪いんだけど、後でいいんだけどこれ三十部ずつコピー頼める?」
申し訳なさそうに鹿山は書類の束を晶湖に渡した。
「承知しました。コピーだけで大丈夫ですか?」
「それで、一部ずつまとめて三十部の冊子にしておいてもらえる?」
「承知しました。」
「ごめんね、元気になったら食事奢るから。よろしくね」
最近よく聞く言葉だが真凜はスルーすることにした。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
「上村さんを食事に誘うきっかけを作ってるんだ。だから考えといて」
鈍いのかわざとなのか、なかなか誘いに返事をくれない真凜に鹿山は苦笑した。
「え」
「じゃあ頼んだよ。外回り行ってきます」
「あ…」
真凜が返事をする間もなく鹿山は飛び出していく。
他の従業員からは行ってらっしゃいの声が聞こえた。
「朝からぐいぐい来てたね。彼、本気そうじゃない?」
真凜の前の席の井上麻子が内緒話をするように口に手を添えて声をかけてきた。
「あ、おはようございます。井上さん」
「おはよ。前から思ってたけど、鹿山くん、上村さんに気があるでしょ」
井上麻子は40代の既婚者で、仕事中は髪をおだんごにしてメガネをかけているが以外と童顔で、私服姿だと高校生のお子さんがいるとは思えないくらい若く見える。
「や、そんな」
真凜ははぐらかすような曖昧な顔をした。
「彼、前から頑張って誘ってるじゃない。今彼氏いないんでしょ?一回くらい食事につきあってあげたら?」
──他人事だと思って
興味本位で言っているとしか思えない井上の言葉に返事に困る。
確かに、今までの真凜だったらすぐ誘いに乗ってただろう。鹿山はスラッとした体型で顔もどちらかと言うと良い部類に入る。親切だし、どちらかというと真凜の好みに入るはずだった。
──どうして乗り気じゃないんだろう。
答えは明白である。晃輔が気になっているからであった。
──おかしいよね。接点が医者と患者だけなのに。しかもきっと年齢も十歳くらい違いそう。
でも、会って話せれば嬉しいのである。
「今はちょっと風邪ぎみっぽいので。治ったら考えます」
本当の事を言う気にもなれなくて晶湖はそう言ってはぐらかすと、書類の束をもってコピー機に向かった。
─────────────────────────ヲ食ベタイ
「悪鬼羅刹の類でしょう」
昼休み、朔は昼食中にそう言った。
「うーむ…」
「あっきらせつ…?」
今日のお昼は朔特製弁当を晃輔も晶湖も味わっている。
幕の内のような豪華な御重である。
「あっきらせつって何ですか?…あ、このだし巻き卵美味しい〜」
「悪鬼は悪い鬼と書いて悪鬼、羅刹は網羅の羅も刹那の刹。悪鬼はその名の通り人に災い・害をなすモノノ怪・妖の類。羅刹は仏教においては人を食べる凶悪な鬼。まだ特定できないけど、ほっておくと災いをもたらす類のものだと思う」
もしゃもしゃと里芋の煮物を食べながら晃輔が説明する。
「羅刹はサンスクリット語でラクサーシャ、人を食らう鬼のことです。また速疾鬼と呼ばれるほどの俊敏さ持つとも言われています。一方で羅刹天として仏教における護法善神『十二天』の一つとして数えられてもいます」
朔が急須でお茶を入れながら補足をする。
「それが上村さんに取り付いているんですか?」
「おそらく」
晃輔と晶湖にお茶をいれたカップを差し出す。
晃輔は受け取ったお茶を早速啜った。
「そうするとどうなるんですか?…ん〜このお芋味がしみしみで美味し〜」
晶湖は質問しながらも食べる箸は止まらない。
「鬼に取り憑かれた場合、その鬼本来の行動を取るようになり、ほうっておけば、そのうち本物の鬼に成り果てます」
朔は湯呑茶碗を両手で持ちながら口元に持っていくとふーふーとお茶を冷ましながらそう言った。
「え!じゃあ早く取り除かないと、じゃないですか!」
晶湖は流石に驚いて箸を止めて晃輔の方を見た。
「そうだね」
晃輔はほうれん草の胡麻和えを口に運びながら同意した。
「こんなのんびりしてていいんですか?」
晶湖は動揺して箸を置いて朔と晃輔両方の顔を見る。
「一応ね、処方した薬にはね、朔さんの術が込めてあって、鬼化を抑える作用があるんですよ」
晃輔は俵状のご飯を口に運ぶ。
「じゃあ、それで鬼化しないで済むんですか?」
晶湖は期待を込めて晃輔に聞いた。
「うーん…だといいけど。…弱い鬼ならばあれでも十分なんだけど、今回のはどうだろう」
晃輔は卵焼きに箸を伸ばした。
「…もし、鬼になっちゃったらどうなるんですか?」
晶湖は恐る恐る晃輔に聞く。
「その場合は…あまり考えたくないけど、殺すしかないね」
「!」
「完全に鬼になってしまうともう人間には戻れないのです」
朔は困ったような顔をして晶湖に説明した。
「だから…一週間後または、それより早く来てくれる事を願うしかないかな」
晃輔はサバの塩焼きに箸を入れる。
「…」
今の晶湖には何も出来ない。晶湖も置いていた箸を持って続きを食べ始めた。
そうは言いながらも晃輔とて黙って指を咥えてみているだけではなかった。
真凜が受診したその日のうちに様子を探るように命じてあった。
今も朔の尻尾のうちの一本を飛ばして様子を見ている最中である。
今のところ食欲以外目立った変化はないが、このまま継続して見張っているつもりである。
晶湖にそれを伝えないのは、朔に命じてとはいえ女性を二十四時間監視中である事を、なんとなく晶湖に伝えづらかったためでる。
そういう意味でも真凜には自発的に来てほしいと思う。
ただし、もしも明らかな兆候が現れてしまった時には、完全に鬼化してしまう前に真凜の元へ駆けつけるつもりの晃輔であった。
「ああ、お腹がすいた」
もうすぐ終業時間。昨夜から飲み始めた薬のおかげか、今日はぼーっとする時間が少なかったように感じた。
やはり風邪だったのだろう。このまま治ってしまったら先生に会いにいけなくなってしまう。いや、その時はお陰様で治りましたと言いに行こう、などと思っていたら、小さくお腹が鳴った。
お昼ご飯も外で焼肉定食をしっかり一人前食べたというのに、もうお腹がすいてきた。
夕飯の時間まで待てる気がしない。ちょっとお茶して帰ろうか。でもがっつりお肉が食べたい。そんな事を思っていると、鹿山が外回りから帰ってきた。
「あれ?鹿山先輩直帰じゃなかったんですか?」
壁にかけられたホワイトボードには鹿山のところには直帰のマグネットが貼られている。
「ちょっと忘れ物をしてしまって」
鹿山は照れたように頭を掻いた。
「そうだったんですね。お疲れ様です」
そう言いながら真凜はチラッと鹿山を見た。ずっと食事に誘われているの、今日行くのどうだろう。外で食べるなら誰かと会話しながらがいい、恋愛感情が混じっていたら困るけれど、まだ何も言われていない。会社の先輩と食事に行くだけなら、何の問題もない。真凜はそう考えて、鹿山を食事に誘ってみることにした。
「鹿山先輩、今日この後何か用事ありますか?よかったら前から言ってくださってたお食事、今日行きませんか?」
「体調は大丈夫なの?」
鹿山は驚いて聞いてきた。
「はい、お陰様で。今はそれよりお腹ぺこぺこなんです」
真凜はにっこり微笑んだ。
「勿論何にも予定なんてないよ、よし、行こう。どこがいい?何が食べたい?」
鹿山は一瞬ぽかんとした後、すぐに我に返ってOKの返事をした。
「私、今日はお肉をがっつり食べたい気分なんです。ステーキとかでもいいですか?」
「お。いいね。じゃあ駅近の鉄板焼屋なんてどうかな?」
「いいですよ」
「OK、じゃあ予約取るね」
元々真凜を誘えたら考えていたお店だったのだろうか、そう言うと鹿山はすぐにスマートフォンを操作しネットで予約を取った。
「OK予約取れた。六時からだから今から向かえば丁度いいかな」
鹿山はスマートフォンの時計を見ながらそう言った。
「そうですね。そしたら急いで着替えてきますね」
真凜は腕時計を見ながらそういうと、退出準備をして鞄を肩にかける。
「じゃ、行こうか。下の玄関で待ってるね」
鹿山は鞄に忘れたらしい書類を詰めて肩にかけ直した。
「はいわかりました。それじゃお疲れ様でした。お先に失礼します」
真凜は鹿山に返事をすると、まだ事務所に残っている社員に対し挨拶をして廊下へ通じる扉へ向かった。
更衣室に入り自分のロッカーを開けるとすぐに着替え始める。
ストライプのカラーシャツの上に白のニット、下はロングパンツにショートブーツを合わせている。
後ろで一つに纏めていた髪留めを外すとロッカーの扉の内側についている鏡でササッと髪を直し、口紅だけ塗り直すと、上着を引っ掴みロッカーの扉を閉めた。
ロッカーの鍵をかけ、更衣室を出る。カツカツと足音を立てながら玄関に急いだ。
玄関近くに着くと、鹿山がスマホの画面を見ながら待っていた。
濃紺のシャツに同系色のライトブルーとネイビーのストライプのネクタイにスリムなグレーのスーツ。足元はライトブラウンの革靴で黒のビジネスバッグを肩にかけている。
髪は襟足は軽く刈り上げていて、カールが大きめのナチュラルパーマ。
細身で背もそれなりに高く、どちらかと言えば真凜の好みの顔立ちをしている。
──前だったら好きになってただろうな。
遠目から鹿山を見た真凜はそんな感想を抱いた。
「どうしたの?忘れ物?」
少し離れたところで立ち止まった真凜に気がついた鹿山が真凜に声をかける。
「ごめんさい、お待たせしました」
真凜はふるふると顔を横に振ってそう答えた。
「全然。じゃ、行こうか」
鹿山は若干嬉しそうにそう言って、玄関の自動ドアの前に立った。
鹿山が選んだ店はややお高そうな鉄板焼の店だった。
暖簾をくぐって自動ドアの扉の中へ入る。途端に肉の焼けるいい匂いがした。
会計カウンターから出てきた店員に鹿山が名前を名乗ると、通路を通って段差を上がった扇状の鉄板に十人ほど座れそうなカウンターの左隅二つの席を案内された。席を三つ挟んで中央から右側には四人グループが座っている。
半円の鉄板のカウンターの後ろ側には同じような扇状の鉄板が線対称に並んでおり、鉄板の内側で料理人が二人、それぞれの鉄板に付けるようになっていた。
「いらっしゃいませ」
鉄板の向こう側のコックコートを着た料理人と思われる人物がにこやかに二人に挨拶をした。
「どうしようか。コースにしちゃう?食べられそうかな?」
鹿山が真凜にメニューを開きながら聞いてくる。
「はい、お腹ぺこぺこです」
真凜は素直に答えた。実際とてもお腹が減っている。身体が肉を欲していた。
「そうしたら、本日のスペシャルコースで…えっと飲み物はどうしよか?ワインは飲める?」
鹿山は一つ一つ聞いてくる。
「はい、大丈夫です」
普段はそんなにお酒は飲まないが、今は何でもよかった。
「そしたら、とりあえず、グラスワインの白を二つ。」
「かしこまりました」
シェフが紙にオーダーを取り、鉄板の上にオーダー票をぶら下げた。
程なくしてグラスが運ばれてきた。ソムリエらしき従業員が、美しい振る舞いでグラスにワインを注ぐ。それほど変わらないタイミングで本日のサラダが運ばれてきた。
「じゃ、乾杯しよっか」
鹿山が真凜に向き直ってグラスを真凜の方に持ち上げる。真凜もぎこちなく真似をして鹿山の方にグラスを傾けた。
「今日もお疲れ様でした。かんぱーい」
軽くグラス同士をぶつけ合う。慎重に小さく。グラスはチンと小さく音を立てた。
そのまま鹿山はくいっとグラスを傾けた。喉仏が上下に動く。
真凜はその動きに釘付けになった。
「どうしたの?飲まないの?」
「あ」
真凜は慌ててグラスに口つける。ふわっと柑橘系の香りがして、その後を追いかけてくるアルコールが喉を焼いた。
「活き伊勢海老になります」
食材が順に運ばれてくる。料理人は客に食材を見せた後、鉄板で調理を始めた。
その場で皿に美しく盛られ提供される。
その都度鹿山が何かを言ってくるが、あまり頭に入ってこない。
眼の前に出される料理は、どれも凝っていて美しくあるが、真凜には砂を噛むような感覚しかなかった。
──お肉が食べたい。
鹿山は飲むと饒舌になるようだ。今日回った営業先のちょっとした出来事を話しているが、真凜は相槌を打つのがやっとだった。
そうしてやっとメインの肉料理の番になった。メイン料理は黒毛和牛のサーロインステーキ。
「焼き方はどうされますか?」
料理人に聞かれ、真凜は躊躇いなく「レア」を選んだ。
眼の前で焼かれる肉。
──早く食べたい。
一口サイズに切り分けられ眼の前に差し出されると、真凜はすぐに口に運んだ。噛むと肉汁が溢れる。甘く柔らかい脂身。
──美味しい、でも。…が足りない。
美しく上品に出された肉は今の真凜には物足りない。
──もっと食べたい。
鹿山は更にグラスワインを二杯追加で頼んでご機嫌になっていた。
最後のデザートが運ばれてくると、鹿山のところにレザーのフォルダーに挟まれた会計伝票が置かれた。真凜からは値段は見えない。鹿山はそれをカードで支払うと、ゆっくりと珈琲を飲んだ。
デザートのシフォンケーキと紅茶(鹿山は珈琲)まで平らげると、鹿山はゆっくりと退店を促した。
「そろそろ出ようか」
真凜は静かに頷く。アルコールによってやや頬は赤く、目は潤んでいる。その顔をみた鹿山はドキリとした。
自動ドアが開き入った時と同じように暖簾をくぐる。
二人並んで駅に向かって歩き出す。真凜はここ最近の頭がぼーっとする症状が出始めているのを感じた。
「あの、ご馳走様でした…」
──いけない。夜の分のお薬は持ってきてない。
「美味しかったね」
アルコールが入っているのもあるだろうが、鹿山は上機嫌だった。
「どうしようか?このまま帰る?それともどっかでお茶でもしていく?」
鹿山は真凜の様子を伺いながらそう聞いてくる。真凜はぽーっとした顔をして鹿山を見上げた。
二人の足が止まる。そんなに遅い時間ではないが、裏の細い道のせいか近くに人影はない。
「私──」
真凜はゆっくりと鹿山の下顎のあたりに手を伸ばす。その指が顔を輪郭を辿って首筋を撫でる。鹿山はゾクリとして真凜の顔を見た。暗くてよく見えないが、薄っすらと微笑んでいる。
鹿山はゴクリと唾を飲み込んで、真凜の細い腰にそっと手を回す。真凜は何の抵抗も無く鹿山の胸に落ちてきた。
真凜は鹿山の胸に両手を当てぽてっと頭を預ける。
そうしてゆっくりと顔を顔を上げる。ほぅっと真凜の口から漏れた息が鹿山の首にかかる。
思わず鹿山は真凜を抱きしめる。
腕の中で身動ぎする真凜を感じて鹿山はゆっくり腕の力を緩めた。
顔を上げ、目を伏せる真凜の顎を掴む。
ゆっくりと鹿山が真凜に顔を近づける。
「私──」
────────────────────人ヲ食ベタイノ




