7話
雨音が途切れることなく降り続いていた。
遠雷がわずかに聞こえては途切れ、また鳴る。
俺は箸を持ち上げたまま、対面のアズサがスマホ片手に焼き魚を突いている様子をぼんやりと眺めていた。
昼間の『……大嫌いだ』が波の様に寄せては返す。
「仏壇とか買った方がいいのかな?」
突然アズサの声が耳に飛び込んできた。
昼間サキに言われた言葉を反芻していた俺は急に我に返る。
「……そういうのはアズサが決めた方がいいよ」
そうだ、今はアズサと二人で晩御飯を食べていたのだった。
もう、ここにおばさんが帰ってくることはない。
もう二度と。
別れは絶対的なものだ。もう元には戻らないという絶対的な変化。
「まあ、いらないかな。おばさんそういうの嫌いそうだし」
アズサはフイっと顔をそむけてスマホをいじり出す。
アズサは飄々としているようでいて、でも最近は度々暗い顔をしている。
「あ、そういえば」
アズサは叔母さんが生前から自身の死後の用意をしていたことを話した。
叔母さんの職場の私物は滞りなく処分されており、元から家にはあまり物もない。
彼女は軽装で全国を飛び回るジャーナリストだったので、そもそも家にはそんなに私物はないのだ。
数少ない親戚に助けられ、わずかな彼女の友人を呼んだ小さな葬儀も終わった今、すぐにやるべきことはない。
おばさんの死んだ後の処理はあまりにもあっけなかった。
「なんか。意外と人って一人死んでもこんな程度なんだね」
そう言ったアズサは窓の外を見て、オカズを一口食べた。
食器が軽く鳴る音と、静かな雨の音。
不意にアズサのスマホが鳴った。
それを取り上げたアズサはスッとそれに目を通すと、ご飯をさっさと食べ終えて立ち上がる。
「あ、ごめん僕出かけてくる」
「え?あ……朝ご飯はいる?」
「いらない、かな?」
アズサはたまにこうやってどこかに出かけていくことがある。誰か女友達のところに行っているのだ。
アズサが歯を磨いてる音が遠くに聞こえる。
もしもうアズサがここを最後に帰って来なかったらどうしよう。
そんな唐突な想像が大波の様に俺に覆い被さってきた。
アズサはいつまでも俺の隣に居てくれるわけじゃない。
いつまでも隣にいるわけじゃない。
「じゃあいってきまーす」
『ギュイッ』とアズサがドアを開く音が聞こえる。
「あ、ちょっと待……って……」
俺は声を出そうとしたが、アズサはさっさと出ていってしまった。
宙ぶらりんに伸ばしたままの手の先に、ジリジリと音を立ててゆっくりと扉があらわれる。
赤と黒の炎を纏った、いつも夢で見るあの扉が。
幻覚だ。そこにないと頭でわかっている、ただの妄想上の扉。
でも、痛いほど伝わってくる焦燥感と。
大きすぎて全貌の見えない恐怖。
この扉は開いてはいけない。
絶対に開いてはいけない扉なのだと魂が叫び出している。
筋肉が恐怖に強張っていて、俺は不恰好に宙へ手を伸ばしたままで固まっていた。
背中をゆっくりと伝っていく冷や汗だけがやけに鋭敏に感じられる。
そのとき、なんの前触れもなく、扉が掻き消えた。
急に体の自由を取り戻した俺はすとん、とそのまま椅子に座り込む。
アズサが小走りで自分の部屋へ向かっていく足音が聞こえた。
何か忘れ物でもしたらしい。
そういえば、さっきアズサが扉を開ける音がしていた。
俺は自然と。
『そうだ、アズサを見たい』と、そう思った。
まだ違和感の残る足を引きずって廊下へ向かう。
アズサは財布を片手に傘立てから傘を引き抜いているところだった。
こちらにはまだ気づいていないようだ。
俺は何も言わずにアズサをただ見つめる。
アズサはいつも通りの白の上下を着て背筋をピンと伸ばして立っていた。
私服だから制服とはデザインが違うが雰囲気は同じ。
いつも通りのアズサだ。
すぐそこにいるはずなのに妙に遠くに見えるアズサだ。
不意に雨に混じって誰かの声が聞こえた。
『おい、アズサ!お前はすごい奴だけど、俺は絶対にお前を一人にしないからな!』
どこかからか、甲高い子供のような声がする。俺は、この声が誰かを知っている。
『俺には怖いもんなんて何も無い!お前にもいつか追いついて、追い越してやる!』
これは、俺。子供の頃の俺の声。
いつだ、いつ、俺はこんなことを言ったんだ?
なんで今こんなことを——。
「違う。そんなことはどうでもいいんだ」
俺は自分に言い聞かせるように呟く。
アズサはもう扉に手をかけていた。
昔から俺は、アズサの隣に立ちたかったんだろ?
そのために変わらなきゃいけないんだろ?
「アズサ!」
俺は気づけば口を開いていた。
「ん?何だい?」
ドアに手をかけたままスッと振り返ったアズサがキョトン、とした顔でこちらを見る。
アズサが手をかけているドアがまたしてもあの扉のように見える。
いつも見慣れた扉に段々と炎が巻きつき始め、俺の喉がどんどんと固まり始める。
でも、俺は言った。
いつも、言いたくて、でも言えなかった言葉を言った。
俺はかっこいい漫画の主人公みたいにはなれないから、こんな少しのことをいうのにこんなにも大袈裟な決心が必要だったけど。
それでも俺は言った。
「やっぱり、朝ごはん作っておくからさ……それまでには帰ってきてよ」
昔と違って、それはアズサに寄りかかった宣言だったけれど、俺には何かが変わったような。
そんな気がしたんだ。
「え、あ……じゃあ、そうする……」
アズサはそんなことを大真面目に言った俺を見て呆気に取られた顔をする。
そしてアズサは首を傾げながら扉を開け、ふとドアノブを離した。
すいーっと動いた扉がパタンと音を立てて閉まる。
アズサは煩わしくて仕方がない、というようにお気に入りのスニーカーを脱ぎ捨て、こちらに走ってくると俺を抱きしめた。
強すぎて、少し痛いくらいに俺を抱きしめたアズサは、俺の髪に顔を埋める。
「なんだか、今、すごく昔のトモくんが居た気がした」
アズサの声は、少し震えていた。
今度は俺が呆気に取られる番だった。
俺はしばらくの間を置いたのち、思い出したようにこちらもアズサの背に手を回そうとする。
しかし、俺が抱きしめ返すより先に、パッと離れたアズサは、こちらに顔も見せずに出ていってしまった。
「な、なんだったんだ、アイツ」
アズサが顔を埋めていたあたりの髪の毛には少しだけ水滴がついていた。




