6話
ただ暑かった。
じんわりと滲む汗がシャツを湿らせる。
俺は学校の廊下を屍のように歩いていた。
窓から入ってくる陽射しが嬲るように俺のことを照らす。
心なしか、周囲の生徒のざわめきも、俺のことを嘲笑しているようだった。
ずっと、朝からずっと、昨日見た夢の光景が目の奥から離れてくれない。
俺は思い出してしまった。
10年前、黒炎によって俺の親が焼き殺されたこと。
黒炎によってアズサの親も殺されたこと。
俺たちは、黒炎事件の最初の被害者だったのだ。
俺がアズサの叔母さんの家で暮らし始めたのは、両親を亡くした幼い俺がアズサとまで引き離されるのを拒んだから。
確かそう。そのはず。
肉の焦げる匂いが、魂の底が抜けてしまった虚脱感が鼻の奥にも、心臓の奥にもこびり付いてしまっている。
この熱気も、まるであの炎の中にいるようで気が滅入った。
ふと視界の奥で真っ白い光が見える。
廊下の向こうの端に居るアズサだった。
アイツは今日も今日とて真っ白な服に包まれ、熱気を感じさせない。
夏場は冷感素材のものを着ているらしいが、それでもこの熱気の中、長袖長ズボンなのには代わりなかった。
俺は声をかけようか迷って、話しかけなかった。
別に前から学校ではあまり話さないのは変わっていない。
今日もいつも通り。
いつも通りに、アズサは周りの女の子たちと楽しそうに会話しており、事件の影を見せない。
実の叔母を亡くしたアズサは喪失を表に出していないのに、なんで俺がここまで情けないことになっているんだろう。
——ああ、アズサが、遠い。
結局、俺はアズサに声をかけられないうちに、アイツは周りの子たちと一緒に階段へ消えていった。
俺は鬱屈とした階段をノロノロと登り、アイツから離れるように屋上へ向かう。
屋上の扉はすでに開いており、外の蒸し暑い空気が流れ込んできていた。
そのまま扉をすり抜けて外に出ると、一瞬視界が真っ白に染まる。
屋上には先客がいた。
パーカーを制服の上から羽織り、フードで顔を隠した少女が日陰になっているところに座っている。
サキだった。
今日も今日とて口元は黒いマスクで隠されている。
ポケットから覗くスマートフォンからはイヤフォンのケーブルが伸びていた。
サキはフェンスの向こう側を見たまま、ぼそっと言った。
「……保護者の方のこと……残念だった」
「……」
「……何か言いたいことがあるなら……ちゃんと本人に伝えたほうがいい、と私は思う……」
「……なんで叔母さんのこと知ってるんだよ。その話はどこにもしてないはずだ」
きっとサキの発言が的を得ていたから。俺は棘のある言い方で話題を逸らす。
すると、サキは目線をこちら側に向けてきた。
「いつまでもその言いたい人が……そこにいるとは思わないほうがいい……」
睨みつけてくるかのような、普段の眠たげな目とは正反対なその眼光に俺は一瞬怯む。
サキはふっと視線を落としてポツリポツリと語り始めた。
「私は幼い頃……人の顔の区別がつかなかった。だから匂いで人を覚えていた……。私にとってあの子は、ゼラニウムの香りだった」
彼女の親友である「あの子」には生まれつき、顔に大きなあざがあった。
そのせいでサキが彼女と出会った当初、「あの子」はポツリポツリとしか喋れなかったらしい。
一方のサキは、当時子役として芸能活動をしていた。
優れた容姿に加え、自分は選ばれし人間だという当たり前の自己評価。
そして美醜が直接評価に結びつく芸能界特有の空気。
今の自罰的なサキの様子からは想像もできないが、当時のサキはハキハキ喋るクラスのリーダータイプの人間だった。
身体的なハンディキャップにより阻害されていた「あの子」と、身体的なアドバンテージにより評価されていたサキ。
不思議とそんな二人は馬が合ったのだという。
「私とあの子は、一緒に学校に通い……一緒に遊びに行き……そして同じ人を好きになった……」
サキは外界から自分を切り取って消し去ろうとするようにスマホの音量ボタンを二回押す。
少し気の早い蝉の声が大きくなる。
サキは考えをまとめるように少しだけ黙り、変わらない調子で続けた。
「……あるとき、あの子がその好きな人と付き合うことになったという……噂が流れてきた」
それを聞いたサキは当然の如く憤った。
なんで。抜け駆けはしないという約束じゃなかったのか。本当は昨日も私のことを心の中では嘲笑ってたんじゃないのか。
やり場のない感情をぶつけるためにその親友の子を糾弾したサキは、矢継ぎ早に罵詈雑言を浴びせたのち、その子に対してこう言ったそうだ。
『あんたよりも私の方が絶対に可愛い!そんな顔をしたあんたが誰のおかげでクラスメートと普通に話せるようになったと思ってる!?』と。
サキはただ台本の台詞を読み上げているように告げる。
「……私はそう言って逃げた。……あの子がその日の夜に死んだ」
黒炎事件だった。
「あの子」は信じていたサキに強烈な負の感情を叩きつけられ、悲しみに暮れながら家に帰り、そしてサキの「誤解」を解く前に炎に巻かれて死んでしまったのだ。
そう、誤解。
サキの怒りは勘違いだったのだ。
「あの子」の葬式の帰り道。サキは二人が好きだった人と偶然出会ったらしい。
それは果たして偶然だったのか、そう仕組まれた運命だったのか。
彼は言った。
『告白は振られたんだ』
告白したのは自分であること。そして「あの子」は告白を断ったということ。
サキはぐちゃぐちゃの頭でその話を聞き、残酷な真実に辿り着いてしまう。
「あの子」も同じ人が好き、というのはサキのただの勘違い。
最初からサキに合わせて「彼のここがかっこいい。ここが素敵」と話を盛り上げてくれていただけで、彼女自身は最初から彼のことに興味がなかったのだ。
そしてサキは自分を醜い「心」の持ち主であると思い詰めるようになり、自身の顔にコンプレックスのある「口裂け女」の怪異をその身に宿すこととなった。
「……私はこのままではいられない……。黒炎事件の犯人は……私が突き止める」
サキの長い話が終わっても、しばらくの間、俺は何も言えなかった。
強い主人公が華々しく活躍するようなアニメなら。
きっとサキの話を聞いた俺は、義憤に駆られて黒炎事件を追うことを決意するんだろう。
でも、俺は……。
まだらに錆びたフェンス。
日に熱せられたコンクリート。
光を反射する排気用のアルミパイプ。
太陽が強く、強く光を放っているのに、俺の視界に映る屋上は妙に色褪せて見えた。
どこかへ進むことは、新しい別れの可能性というハズレだけがたくさん入った箱からくじを引くようなものだ。
何かに向かって進むのは大事だ。何かを得るには何かを失う必要があるってのも真理だろう。
脳裏に黒と赤の混じった炎のイメージが蘇る。
きっと俺は炎に包まれたあの日の子供部屋からずっと出られていない。
俺は10年前のあの日からずっと、あの光景に囚われ続けている。
俺は今手元にあるものを失いたくない。
もう二度と、扉を開けたせいで誰かとの別れを確定させたくない。
焦げた死体も、誰かとの別れも見たくない。
何も無くしたくない。
何も取りこぼしたくない。
だから俺は、ずっと扉を開かずに部屋に閉じこもっている。
いつまでも外の世界への扉を閉ざしている。
黙りこくっている俺に対して、サキはあと少しだけ言葉を続けた。
「……私はあの子と仲良くなれたことを後悔してない。後悔したくない。私はそれを後悔しちゃだめ。後悔する弱い私じゃだめだから」
そう言ったサキは、かつて確かにあったであろう自身の姿をなんとか取り戻そうと必死でもがいているようにも見えた。
俺は拳を強く握りしめる。
「……そう思えるお前は強いな」
サキはすっと立ち上がると皺になってしまったスカートを軽く叩いた。
「……私は強くなんてない、弱くて醜いただのサキ」
「でも」とサキは呟くと、俺に背を向けて屋上から校舎の中へと入った。数歩歩いて立ち止まったサキはこちらに背を向けたままはっきりと言った。
「私は今の弱い自分が嫌い」
その言葉には自己嫌悪と、がむしゃらに先へと進もうとする意思と、そして——。
「……大嫌いだ」
——そこには、何よりも強い怒りがあった。
『ガシャン』
と音を立てて扉が閉じられる。
サキが行ってしまっても。
しばらくの間、サキの言葉に縫い止められてしまったような俺の足はまったく動かなかった。
屋上にはいつまでもそこへ立ち止まっている俺だけが、ただ取り残されていた。




