5話
あれから二日という信じられない速度で傷を直された俺は、早々にあの病室を追い出され、無事に家への帰路についていた。
何気にあの日からアズサはお見舞いに来なかった。
妙なところで律儀なアイツならまた一回くらいは来ると思っていたが、当てが外れた。
一体何をしてるんだろう。
そんな疑問を頭の端に引っ掛けつつ、曲がり角を曲がった俺の視界に飛び込んできたのはいつも通りのうちのマンション。
何もかも変わらない、いつも通り、だ。
でも、なぜか俺の足取りは嫌な感じに重かった。
執拗なほどに鳥の声が耳元に張り付いて聞こえる。
何も変じゃないはず。全部がいつも通り。そう、そのはず。
こんなタイミングで頭によぎるのは見舞いに来なかったアズサのこと。
……なんだこの嫌な感じは。
俺は自動ロックのドアをカードキーで抜け、エレベーターを使わずに階段で五階まで駆け上る。
俺はいつものようにドアノブに一度手を伸ばしてみてから諦めて、インターホンを押した。
ピンポーン。
しばしの空白を置いてアズサがドアを開ける。
大丈夫。アズサはいつも通りだ。
俺は久し振りにアズサに会えたことへの安堵に一息つく。
でも、アズサの顔はいつもよりも硬い。
一旦消えかけた不安がまたぶり返してくる。
「た、ただいま?」
「トモ君」
開口一番、アズサは言った。
「黒炎で叔母さんが亡くなったって」
どこか別の階で鳴ったインターフォンの音がピンポーンと耳に残って、消えた。
アズサはこの情報をどう受け取ったらいいか分からない、というような顔をして、俺を家に招き入れようとする。
だが俺はただただ玄関の外で立ち尽くしていた。
「は、え……?」
亡くなった?
叔母さんが?亡くなったって。
そんなこと、言われても。
亡くなる?無くなる?なくなる?
思考が凍ってしまった俺は「なくなる」という四文字を漠然と繰り返すだけで何も言葉には出来ない。
「昨日警察の人が来て、それで。ちょっと前にニュースでやってた黒炎事件、あったでしょ」
アズサは俺の手を引いて、ドアの鍵を閉める。ガチャン、と音を立てて扉が閉まる音が響く。
よたよたとよろめいた俺はアズサに引っ張られて居間へと連れていかれる。
「それの被害者が叔母さんじゃないかって言ってて」
写真を見せられたんだ、とアズサは言った。
焦げちゃってて何が何だかわかんないんだけど、叔母さんがいつも着けてたブレスレットつけてたから、多分おばさんだと思うって言ったら、ご冥福をお祈りしますって。
言われた。
そう言ったアズサの顔は窺えない。
彼女は終始淡々と喋った。
彼女にとって最後の親戚である叔母。
そんな叔母を、またしても黒炎によって奪われて。
でも、彼女は凍ったような声でただ事実を順番に並べるだけだった。
俺は、感情を殺してしまったアズサを慰めるべきだったのかもしれない。
ここで、俺はアズサを抱きしめるなり、何か言葉をかけるなり、何かするべきだったのかもしれない。
でも、あのときの俺はただ漠然とした別れの恐怖に、突然その牙を向いた別れの絶対性に、身を縮こめているだけだった。
アズサが叔母の死を告げた瞬間、ある音が聞こえた。
俺の中で何かがねじ切れた音。
それはきっと、今度こそ壊れないと思っていた日常が壊れた音。
あの閉じ切られた炎の扉の鍵が壊れた音だった。
*
扉はまだ閉ざされていた。
その先の光景を俺に見せまいと、そこへ必死に立ち塞がっていた。
『その先へ進んじゃいけない!』
俺は叫んでいた。
かつての自分、すぐそこにいる幼い自分に向けて叫んでいた。
でも、そんな俺の声は10年という月日に隔てられて、あの頃の俺には届かない。
そして、無謀で幼稚な衝動に身を任せたあのときの俺は、ドアノブに手をかけて、ゆっくりと押し込む。
押し開けたばかりの扉の先からはゴウッと音を立てて熱風が吹き込んできた。
『先へなんて進まなくていいんだ!そこでうずくまってれば!』
どんなに怒鳴ろうとしても、俺の叫びは聞こえない。俺の声は空気を揺らしてはくれない。
扉の先には赤黒い炎と死だけがあった。
悍ましい変貌を遂げてしまったのは、いつも見慣れていたはずの廊下。
『察しがついてるだろ!何を目の当たりにするかなんて!』
毎朝一段飛ばしで駆け降りていた階段をゆっくりと一段ずつ降りるたび、巻き上がる炎がちっぽけな俺を避ける。
凄まじい熱気に足元が揺らいで見えるのに。
焼け落ちたシアワセの思い出がここに。そこに。
燃え滓になって転がってるのに。
その炎は熱さなんて微塵も感じさせてはくれなかった。
こんなにも恐ろしい呪詛を、熱を、執着を吐き散らしながらも、黒炎と火炎の混在は火傷一つさせてくれない。
実感のない、幻みたいな地獄。
『その先へ……進まなくても、いいじゃないか……?』
もう一度泣きごとを漏らす。縋り付くように喉を枯らして叫ぶ。でも、その声はやっぱり届かない。届くはずもない。
確か、あのときはただただ、息が苦しかったんだ。
ベタつくような妄執が炎となって俺を締め殺すみたいで。
ぶかつく寝巻きの裾を引き摺って、俺は重い足取りで、おぼつかない意識で、そして。
一階にたどり着いてしまう。
熱で割れた花瓶が小物おきから倒れて散乱している。
頭をガンガン叩きつけるみたいな焦燥感と。
きっとどこかに必死に諦念を持とうとして。
心がどうにか壊れないように必死に体を丸めて。
『見なきゃいいのに。見に行かなければいいのに。なんでお前はいつもそうなんだ』
俺は、玄関に背を向けて、居間に向かった。
視界を埋め尽くす炎の熱波が涙を揮発させて。
それをこぼすことすらできずいるのに。
それでも俺は外に背を向けて、火の絨毯へ分け入っていく。
モーセに逃げ道を作った海みたいに、炎が潮が引くように左右に分かれていく。
なんで?
なんで、こんなことになってるの?
そんな甲高い疑問の声はきっと、今、後付けでつけた偽りの記憶でしかない。
『この先へ進む必要なんてない!本当にないんだよ!それで全部がうまくいくんだ!』
あのときの俺は何も考えてなかった。
何も考えられてなかった。
真っ白な意識の中に赤と黒の炎を焼き付けて。
閉ざしたい瞼の裏に口から出ていかない号哭の残滓を残して。
頭が割れそうなぐらいに耳鳴りがひどくて。
心臓が痛くて。
あまりにも気分が悪くて、胸が詰まって。
息を吸うのに、収縮しすぎて痛みを訴えている喉を必死に開かなきゃいけなくて。
そして。
ブルブル震える体を両手で抱え込みながら居間の床に転がる黒い塊を2つ見つけたとき。
俺は青白い顔で。「ああ、やっぱり」と思って。
何かに取り憑かれたように玄関まで歩いた。
心を空っぽにして歩いた。
炭の塊から少しでも目を背けるために。
焦げ臭い匂いから少しでも遠ざかれるように。
俺は玄関の扉の前に立ち止まる。
まだ、玄関の扉は閉じられていた。




