3話
今日の夕飯を買いに行った帰り道。
左手に食い込む食材の重みを感じつつ、ニュースサイトを眺める。
ビニール袋からは切らしていたアルミホイルの先っちょが飛び出ていた。
スマホの上端に表示されている時刻はもうほぼ夜だった。
昼は暑くなってきたものの、夜はまだ少し肌寒いくらいだった。
すでにあたりは暗くなってきており、スーパーから出ると人通りは少ない。
規則的な街灯の明かりが、一歩ごとに俺の影をズラしていく。
「転校生ねぇ……」
今日は学校でも転校生の話が行き交っていた。
というのもそいつが来るのがよりにもよってうちのクラスらしい。
なんでこんな妙な時期に……そう思いつつスマホの画面に目を沿わせる。
と、ある広告が目に付いた。
『学生青春割!未知なる自然へ飛びこもう!』
何となくサイトを覗いてみると、そこにはポップなフォントが楽しげに並んでいる。
『全国の高校生、大学生向け!新たな出会いと別れがあなたを待っているかも!〇〇県、観光振興部』
若者は挑戦すべきだとかいう言説は昔からずっとあるものの、挑戦なんて大半の若者に身の程を分からせるための通過儀礼でしかない。
拾われるごく一部の天才を簡単に絞るための方便だろう。
アズサはきっと折れない側で。
俺は折れる側だ。
そういえば今日の昼間は風が強かったけど、今はそうでもないな。
そんな考えがふと脳裏をよぎり、何となく耳を澄ましてみる。
ちろちろとした風の音と、さっきまでなかった誰かの足音が耳に入ってきた。
風の音に交じって後方から足音が近づいてきている。
その音の主はサッサッサッとスニーカーを揺らし、3歩離れてこちらに並んだ。
女の子だ。
6月もとっくに過ぎた今にしてはそうとう厚着な上半身と、それとは逆に寒々とした短いスカート。
低めの身長ともこもこした柔らかそうなマフラーで顔はほとんど窺えない。やや眠たげな瞳が道の先をぼうっと見つめている。
その小さな頭に不釣り合いなデカい無線ヘッドホンからは、シャカシャカと音が少し漏れ出していた。
アーム部分に貼られた横文字のステッカーがその子の気だるげな雰囲気から微妙に浮いている。
音量大きくない?とか一瞬思い、再びスマホに目を落としたとき、その子が唐突に口を開いた。
「……これ、誰かから聞いた話」
少し、かすれたような声。その子はこちらを向くでもなく、正面を見つめながらぼそぼそと話している。
ジジジッと音を立てて街灯が一瞬消え、再び点く。
再点灯した明かりはなぜだかオレンジ色を帯びた奇妙な色合いに変化していた。
色づいた俺とその子の影は有機的に地べたを蠢いている。
「あなたは、オレンジの街灯に照らされて……そう、夜道を一人、歩いてた」
「……えっと、俺に何か用ですか?」
俺は一拍待って、周囲に人がいないことを確認してから聞き返す。
声が一瞬のどに突っかかった。じわじわと侵食するような違和感が気持ち悪い。気づけば俺は左手のビニール袋を錨のように固く握りしめていた。
「……そのとき、突然、女の人が話しかけてきた」
彼女は問いかけを無視して続ける。
街灯が急に点滅し、道の先からバチン、バチンと連続して消え始めた。奥からどんどんと暗闇がこちらへ押し寄せてくる。
ゾワっと背筋に這い上がったのはバチバチと火花をあげる危機感。
唾を飲み込む音が、やたらにうるさい。
「マスクで口元が見えないその女の人は……あなたにむけ、こう尋ねた」
今や、そこは真っ暗闇だった。
あたりの住宅はいつの間にか闇に沈み、蒼褪めた月明かりだけがこの場を照らしている。
不定形の影を纏った「ソレ」は、おもむろにマフラーに手をかけ、それを引きずり下ろし――。
「………ねぇ、私、綺麗?」
あらわになったその顔は――口元が耳まで裂けていた。
「っ!」
頬に走る鋭い痛み。パッと跳ねた赤色が宙に飛ぶ。俺はビニールとスマホを投げ捨て、飛びのいた。
「やっば!」
月光に照らされ、ギラリと濡れた刃を輝かすのは二振りの日本刀。その片方の先端からは赤い血が跳ね飛ぶ。
カラカラカラと音を立てて落としたスマホが滑っていく音が妙に間抜けに聞こえる。
まずい。スマホが飛んで行ったせいでアズサに助けを求められない!
数瞬の空白を得て、ソレはゆらりと大きく横に揺れると刀を真横に構え、前傾姿勢をとった。
地を舐めるようにして、影の塊がこちらへぬるりと滑って接近してくる。
俺は転がるようにしてその場から逃げ出した。
背筋の寒くなるような音をさせながら凶刃が幾度も振るわれる。
あたりから明かりが消え去ったせいで、目を凝らさないと足元もおぼつかない。
俺は無様に逃げ惑い、かろうじてその攻撃を避ける。避ける。避ける。
やっと回り始めた頭を叱咤しながら俺はなんとかして心を落ち着けようとする。
まずは相手の情報を集めろ。
今回は特徴が明確だ。
落ち着け、落ち着け。
あいつは間違いなく【口裂け女】。
口裂け女は、口裂け女は――。
――あれだ。
「ポマード!ポマード!ポマー……っがっ!」
相手の弱点を突いたという慢心があったからか、俺の歩調が少し緩んだ。
その油断に応えたのは背を伝う灼熱。ついに獲物を捕らえた刀が喜悦を滲ませつつ、血を吸い上げる。
嫌な感じに視界が震え、地平線が傾いた。
「はっ?なんで……」
一瞬呆然としかけるも、俺は必死に地面を転がり、間髪入れずに首筋を狙いに来ていた追撃をかわした。ふつっと身震いするような音が後ろ髪を数本刎ね飛ばす。
「がぁ!いってぇ……」
背中の傷に地面の石くれが刺さる。ガンガン響く頭を振って俺は地面を踏みしめて再度走り始めた。
なんでだ?なんで効かない?
いや違う。落ち着け。一つずつ特徴を精査しろ。
声は間違いなく届く声量があった。
思い出せ、街灯がまだ点いていたときに見てとったあいつの外見――。
厚着とマフラー。目線が合わない。話し始めて、ライトが消えて。あと、あと――音漏れしていたヘッドホン!
「くっそ。アイツ耳塞いでやがる……」
俺はジグザクに宅地を走り、何とか撒こうとするも、距離はなかなか離れない。急に走り始めたせいで息も上がってきた。
ジトリと湿った背中からだらだらと血が流れる。
俺は気づけばぐるりと回って初めの位置の近くまで戻ってきていた。
俺の走る速度がだんだんと下がるにつれ、ヤツと俺との距離は縮まる。
俺の零した血を踏みつけながらぐんぐん近づいてくるスニーカーの音は、もう俺のすぐ後ろに。
どうする?どうすれば?
焦りと恐怖と痛みから込み上げてくる気持ち悪さを押し殺しつつ、俺は荒い息であと一歩踏み出そうとして――後ろから伸びてきた腕に、地面へ引き倒された。
「がっ!」
右のこめかみが地へ叩きつけられ、跳ねた血が片目に入る。
そしてなんとか立ちあがろうとした俺の首の横に刃が突き立てられた。
人体の最大の急所。頸動脈のほんの数ミリ横に刃をこちらへ向けて刀が直立している。
そしてもう一方の刀を横向きにしてこちらの鼻先へ沿わせたソイツは膝で俺の腹を踏みつけ、俺へぐっと顔を近づけた。
背後に電灯があるせいで、影の落ちたソイツの表情はよく見えない。
ヘッドホンを片耳だけずらしたソイツは左右へ大きく裂けた口を開いた。
「……10年前の事件について……知っていることを吐け」
「じ、10年前の事件……だ、って?」
俺はなんとか息を整えようとしながら、必死に返事をする。
「あなたが知らないはずはない……あなたは、あの事件の……第一発見者のひとり……」
「いや、俺は何も知らな……」
「よくもそんなことが!」
血走った瞳をがっと見開いたソイツは怨嗟のこもった声で怒鳴った。
その目には、粘度がこちらまで伝わってくるほどの重みが宿っている。
ソイツはこちらの腹にギリギリと体重をかけながら矢継ぎ早に叫んだ。
「あの【黒炎】はあなたの家で初めて現れた!あなたは絶対に何かを知ってる!しらばっくれてないで何か言って!言って!言ってよ!」
そう、一息で言い切ったそいつは昂った感情をなんとか抑えようとするかのように喉を震わせながら息を吐き出した。
髪を振り乱して喚くソイツはこんなにも恐ろしいのに、俺にはなぜか、そのときの彼女が泣いているように見えた。
俺は何度か口を開いてはみるものの、ソイツの質問に答えられない。
俺の家が燃えたのが最初の黒炎事件?
そうだっただろうか。いや、言われてみればそうだった気がする。
また、思考がぼんやりし始めた。
いつも、あの夢を見た後と同じ、あの薄靄が脳内に湧き始める。
まるであの黒炎が、燃やした何かをその煙で覆い隠そうとしているかのように。
彼女は俺から一度顔を離し、横髪を苛立たしげにかき上げた。
表情の読めない口裂け女の瞳から、不意にじわりと雫が溢れ、俺の頬に落ちる。
俺は何を言うこともできずに、ただ無意識にその涙を拭ったそのとき。
突如ソイツは体を硬直させ、バッと俺の上から飛び退いた。
わずかな静けさが一瞬挟まり。
そしてシュボッという音と共に、黒い塊が俺の眼前の空気を根こそぎ抉りさる。
そして無音の緊張が夜の住宅街に張り詰めた。
口裂け女の頭を貫けなかったのが至極残念だというように、その闇の塊はキチキチと音を立てて関節を曲げる。
その毛むくじゃらの蜘蛛の腕の持ち主は、涼やかに靴音を鳴らしてその場に現れた。
「ねぇ、僕のトモ君に」
ゆらり、と体を揺らしたアズサの顔には揺れる前髪が影を落としていて。
瞳に浮かぶ硬い白光だけがやけにはっきりと見えた。
「……なにしてるの?」
ハッと我に返ったように口裂け女が構えをとろうとした次の瞬間、ドッと音を立てて鼓膜を叩く衝撃が二人の中間点で衝突した。
その衝撃波で割れた電灯のガラスが宙をキラキラと舞う。
砂埃が消えると口裂け女が刀を二本交差させ、何とか暗黒色の前脚を受け止めていた。
口裂け女の足元には衝撃に耐えきれなかったアスファルトがひび割れ、砕けている。
ギャリギャリと音を立てながら蜘蛛の甲殻が刀に圧力をかけると、限界を超えて力みすぎた口裂け女の鼻からわずかに血が吹き出した。
「え、何?抵抗するの?」
瞳孔の開いた目をしたアズサは一挙に影から蜘蛛腕を全て出すと、その半分で俺の体をそっと掬い上げる。
そして残りのうち一本の腕の上で足を組んで座り、俺を引き寄せると背中の傷口をやんわりと撫ぜた。
「……いっ……てぇ」
俺が力無く痛がる声を聞き、ふと何かに気がついた顔をしたアズサは俺の血のついた手を見て2秒ほど固まった。
そして不意に衝撃音がまた鼓膜を叩く。
最後の蜘蛛の腕がいつの間にか口裂け女に向けて振り切られていた。
アズサはそちらの方を見ることもなく、ただ俺の頭を胸に抱き込む。
急にギアの上がったアズサの攻撃を避けきれず、その爪突をもろに食らった口裂け女の体は数メートル飛ばされた。
彼女の矮躯は地を何度か跳ねてブロック塀にぶつかり止まる。
ピシャッと跳ねた血がブロック塀を汚した。
「ガッ…………ゴホッ……ゴホッ」
口裂け女はその小さな体を痛々しく丸め、抉られた脇腹を押さえながら荒い息をする。
何度か、口元から血がこぼれた。
俺はアズサになんとか相手が口裂け女の怪異であることを伝える。
得心のいった顔をしたアズサは、蜘蛛腕で口裂け女を摘み上げると壊れかけた彼女のヘッドホンを取り外した。
いつの間にかアズサの瞳は普段通りの紫紺の輝きを取り戻している。
「なるほど、随分と物理的な対処だね。こんなに音量大きくしてると耳、悪くなるよ」
ちょっとだけヘッドホンに耳を寄せたアズサはびっくりしたようにヘッドホンを遠ざける。
そして虚ろな目をした口裂け女の耳元へと囁いた。
「……ポマード」
じわっと溶けるように黒い影が体の中心からズレ、地面に散らばっていた二振りの日本刀もふっと消失する。
気づけば口裂け女の憑き人は、元の女の子へと戻っていた。
*
アズサが悠然と髪をかきあげ、俺が痛みに顔を顰め、憑き人の女の子は蜘蛛の腕に引っ掛けられぐったりと揺れている。
そんな妙な均衡関係に一滴を投じたのは想定外の人物の声だった。
「はい!そこまでー!ストップです!」
それはランドセルが似合いそうな女傑。
我がクラスの担任教諭、白宇根マコが、街路の曲がり角から姿を現していた。
「……こんばんは、先生?」
アズサが不思議そうな顔をして挨拶をすると先生は90度しっかり曲げてお辞儀を返してくる。
俺はとりあえず事情を説明するために口を開いた。
「あ、あの、アズサは俺がその子に襲われていたところを助けてくれたんです。なので、いわゆる正当、防……衛?」
「そこはちゃんと言い切ってくれないかな?」
俺は無言でズタボロの女の子を指差すとアズサは目を逸らした。
確かに俺の背中もざっくりいかれているがあれは下手すると死んでた。流石に過剰防衛感は否めない。
しかし、『うんうん』と言わんばかりに大袈裟に頷いてこちらの話を聞いていた白宇根先生はニパッと笑って言った。
「あ!それは大丈夫です!憑き人は異能を行使している時点で扱いが人間から怪異になるので最悪殺したとしてもアズサさんは罪に問われませんし」
これを聞いたアズサと俺は無言で顔を見合わせた。
普段朗らかな先生がこういうのをさらっというと俺の通っている学校が普通の場所ではないということを再認識する。
「ここでマコちゃんの豆知識!出張版です!正確に言うと彼女は怪異を完全発現させていて、しかも刃物であなたを殺そうとしています!この状況ですと、対怪異特措法上、致死的な制圧になってもアズサさんが罪に問われる可能性はほぼありません、と言ったほうがより正確でしょう!ふふん」
先生は得意げに胸を張った。
隣にいるアズサの視線が怖いので目を逸らさせてもらう。
彼女は別に貧ではないが巨というほどはないのだ。
「それに」
と先生は続けた。
「これは学内での模擬戦として処理もできますのでアズサさんは成績が上がりますね」
きょとん、とした顔をしたアズサが自身の顔を指差して聞き返す。
「え、成績が?」
先生は両手を回しながら謎のポーズを取ると、憑き人の女の子の方を見て首肯する。
「だって、あの子、うちのクラスに来る転校生の子ですから」
その少し後に知ったが。
俺の背中をズバッと切り、アズサに脇腹をゴリッといかれたその女の子の名前は【崎宮サキ】というらしかった。




