38話
本日は3話連続投稿となっているので注意して下さい
こちらは2話目です
3話目は3時すぎに投稿します
何もかもが、赤く、黒く染め上げられる。
いつも通った玄関も、いつも歩いた廊下も。
全てが赤く、紅く、黒く、暗く。
「は?」
アズサが困惑したようにそう言葉をこぼす。
あちこちに有機的な繊維が張り巡らされる。
赤黒く変色した俺たちの家はドクリドクリと心臓のように脈打つ。
咄嗟に外へ逃れようとしたアズサは、足にどこかから飛び出した赤黒い血管が絡みついていて動けない。
そして、俺を拘束していた蜘蛛の糸が解けるように消え、俺は体の自由を取り戻した。
呆気に取られて口をぱくぱくさせていたアズサが何とか意識を取り戻し、意味が分からない、とばかりに言った。
「……き、君の能力は、自分の手で扉を開かないとダメなはずだ!僕は君に指一本だって扉に触れさせてないのに!」
俺は静かに告げる。
アズサはこの空間内では蜘蛛腕も炎も使えない、ただの人間でしかない。
囚われのアズサの身にどんどんと周りから生えた繊維が絡みついていく。
「俺はあの扉を自分の手で開けた」
「そんなこと、できるわけ……」
「できる。俺が、ここの扉を開けたのはアズサが今日の待ち合わせ場所に出発したすぐ後。俺はアズサと今日会う前にこの扉をあらかじめ開いておいたんだ」
過去、温室の扉をアズサが閉めても、赤い部屋の能力は途切れなかった。
だから扉を自分の手で開けた俺は、自分の手で扉を閉じなかった。
代わりにサキに扉を閉じてもらったのだ。
「……そ、そもそも何で僕がここに来るなんて予想でしかないのに」
「俺が!」
俺は一心の思いを込めて怒鳴った。
「お前が最後にどこに来るか分からないわけがないだろ!!」
アズサは困惑したかのように拘束された自身の手足に目を落とす。
その姿は、いつもの自信満々な姿とは程遠い、ただの女の子でしかなかった。
「俺は、アズサと今日会う前に、一週間をかけて今までにお前と行った場所をずっと見て回ったんだ!」
公園も、ケーキ屋も、曲がり道も、カフェも、抜け道も。
学校も、レストランも、ビデオ屋も、ゲーセンも、何もかも。
今までに回った場所を全部。
「ああ、アズサ!お前は絶対にここに来る。だってここが俺とお前が一番いた場所で、俺とアズサの一番大事な場所だから!」
俺は子供みたいに喚いていた。
「なんでだよ!何でお前はここに来たんだ!お前が心も何もないただの殺人鬼だったら!こんな郷愁に取り憑かれなかったら!ここにはこなかったはずだ!」
地団駄を踏んで喚き散らす俺を、アズサは呆然と見ている。
本当だったらアズサは俺を殺せばよかったんだ。
そうしたら、アズサが黒炎を使えると知っている人間はこの世に一人もいなくなるんだから。
なのに、アズサは俺を殺さなかった。
だから俺は扉を開いて過去を思い出し、そして今、ここに至っている。
アズサは全てを暴かれて、今、ここで宙に磔にされている。
「なあ、アズサ!聞かせろよ!なんで人を殺したんだ?楽しいからか?それとも——」
「楽しいわけないじゃないか!」
アズサは今までに溜め込んでいた全てを吐き出すように大声を出した。
拘束された彼女はどんなに力を込めて暴れようとしても、もがくことしかできない。
それは本来のアズサが一番嫌がるような、自分の全部を吐露するようなそんな泥臭くて、心の底からの叫び。
「ずーっと聞こえるんだ!今までに燃やした奴らの声が!女の子との夜遊びとか、人を食ったときの馬鹿になりそうな快楽とかで、ただ誤魔化してきただけで!ずっとずっとずっと!僕は悪いことをしたよ!そうだ!でも、僕にどうしろっていうんだよ!!」
アズサは喉を揺らして息を吸い込む。
「最初は地獄から抜け出すために、親を殺したんだ。それで、あのとき、僕は、迷った。止められた。あの燃え移った炎を止めるのは僕には簡単だった。でも、今までに見てたトモ君の普段の家の様子が妬ましかった僕は、僕は——」
——その炎をそのままにしたんだ。
アズサは頭を揺らして、がくりと首を垂れた。
彼女を戒める繊維の赤さは、彼女の流す鮮血の涙のよう。
それで、とアズサは震える声で言う。
「驚くくらいの勢いで炎が回って。トモ君まで死んじゃうかもしれないってことにやっと気づいた僕は慌ててトモ君の家に行って、トモ君が生きてることにホッとして。それから」
彼女に手を伸ばしたいと、そう思うことは悪いことなのだろうか。
「……最初は自首するつもりだったんだ。なのに、なのに、トモ君と一緒にいるときがあまりにも心地よくて、離れられなくて。僕の正体に近づいたやつを一人、二人消すようになったんだ」
彼女が流しているその涙を、痛みを、罪深いことなのかもしれないが俺は拭ってやりたいと思う。
「そしたら、どんどんと死んだ奴らの喚き声が大きくなって、押し殺してたトモ君への罪悪感もどんどん大きくなって……そして、人を食ったときの高揚感で全部を忘れようとして、それで、それで……」
唯一の安心できる場所だった俺の隣をも自身の手で汚してしまったアズサは、全てから逃げたのだ。
女の子と寝て現実逃避。
人を食って現実逃避。
俺と一緒にいると一番安心するのに、しばらくすると辛くなる。
そしてアズサは自分が孤独にした俺という存在に依存され、自身も依存する中で、安心と罪悪感がごちゃごちゃに混ざってしまったのだ。
親を殺されたことへの憤りは、俺の中にも確かにあった。
抑えようのないほどの悲しさと、目の前が真っ赤になって吐きそうなくらいの喪失感と、怒りと。
でも、それはどこかガラスを一枚隔てた向こう側に蠢いていて、よく見えない。
――俺は、アズサのことが好きだった。
初めて会ったあの日から、子供の頃のアズサの瞳に常に映っていた不安と孤独を訴えるあの淀みを、どうにかして払ってあげたかった。
アズサが自分の両親を、俺の両親を殺したあの日。
アズサがこれをやったのだ、と玄関の外で知ったときの俺はそれを頭で理解して、そして心まで落とさずに頭に留めたのだ。
一夜にして親を失った俺は、その元凶であったとしても、もう誰も俺の周りからいなくなってほしくないと思ってしまった。
きっとそれはアズサがどうなっても俺を傷つけないという確信があったからでもあって。
そういう意味では、俺もアズサもきっとどちらもひどく自分勝手にお互いを求め合っていただけなのだろう。
他の人を無視して、ただ二人だけの間で。
「ねぇ、トモ君」
アズサは涙で目をいっぱいにしてこちらに乞うように言う。
「一緒に逃げようよ。そうしたらこれからもまたずっと一緒にいられる。今までと違って僕たちは全ての秘密も隠し事もない、本当の一つになれる」
アズサの誘惑はこの上なく魅力的なものだった。
アズサは絶対に俺から離れなくなる。だって、俺は一度警察にアズサのことを密告しているから。
俺は、アズサから離れられない。
アズサは、俺を放すことができないから。
今からずっと、これからは新たな別れは訪れない。
永遠に続くアズサと二人の幸せな生活。
きっとアズサは全てを知った俺と一緒にいれば、心から安心できる。
そしたら、もう死者は生まれない。
どうしてもアズサが不安になったときは、俺が慰めればいい。
俺の欲しかったものが、ここでうなづけば手に入る場所にある。
俺は黙った。
別れが怖かった。
嫌だ!別れたくない!アズサと別れたくない!
そんなふうに心は叫んでいた。
だってやっと思いを伝えられたんだ。
やっとアズサの隣に立てたんだ。
『おい、アズサ!お前はすごい奴だけど、俺は絶対にお前を一人にしないからな!』
——幼い俺の声が聞こえる。
『俺には怖いもんなんて何も無い!お前にもいつか追いついて、追い越してやる!』
まだ、俺は並んだだけ、なんだ。
アズサの隣にやっと立てただけ。
「……ねぇ、トモ君。ずっと、僕は絶対にきれない絆が欲しかった。僕から絶対に離れない。僕を絶対に嫌いにならない。そんな人が欲しかった。ねえ、お願いだよ!僕を信じられないなら何でもする!ずっと異能を封じられてたって手足を落とされたっていいから!だから!!」
そう叫んだアズサは啜り泣き始めた。
俺は、アズサを可哀想だと思った。
本当にアズサが可哀想だと思った。
きっと彼女は人の輪の中心にいる間もずっと孤独と不安に苛まれていたのだ。
どこへ行っても安心できないから、少しでも不安を紛らわそうとして色々な女の子を囲って、自信満々に振る舞って見せて、でも、その実いつまでも満たされることなく。
でも、俺は。
「……だめだ、ダメなんだよアズサ」
俺は、アズサと一緒に逃げることはできない。
これ以上、アズサに人を殺し続けさせることは、俺にはできない。
これ以上、アズサの罪から目を逸らして、いつまでも温もりの中にとどまっていることはできない。
「アズサ。ずっと、なんて、ないんだよ」
「……嫌だ。トモ君は僕のことが嫌いになったんだ。当たり前だよ、だってこんな猟奇殺人鬼……」
俯いたアズサは目から光を失ってぶつぶつと呟き続けている。
「俺は、今でもアズサのことが好きだよ」
そっと、そう言った。
「だったら、なんで……」
「俺だってアズサと離れるのは怖い。今だってアズサと逃げたくて仕方がないよ。でもさ。ダメなんだよ」
「……分からないよ。何でダメだか言ってくれないと」
「……俺にも、何だかうまく、言えないけど、さ」
『誰かと別れるのってすごく怖いんだ』俺はそう自分に言い聞かせてるように言った。
アズサを見逃して二人で泥沼のような安心感の中に……、今ですらそんな誘惑は消えていない。
だけど、俺は別れが怖かった。
この上なく怖かった。
「知ってるよ。僕だってそんなことは知ってる!」
だから。
「誰かを殺すってことは、残された人たちが別れに悲しむってことなんだよ」
俺は、アズサに静かにそう告げた。
俺は、別れが怖い。
今でも怖い。
これからの未来で待ち受けている無数の別れが怖くて怖くてどうにかなりそうだ。
だけど。
だからこそ、他の人にもこんな別れの痛みを、怖さを、味わってほしくない。
アズサの影では間違いなく顔も知らないただの他人の誰かが、悲しんでいる。
「アズサ。俺は、ただの他人だったアズサが可哀想だったから、アズサのもとに来たんだ——」
初めて、アズサの家の庭に忍び込んだときの光景が眼に浮かぶ。
風に新緑の樹が揺れて、木陰に小さくなって座っている子供のアズサ。
彼女の紫紺の瞳は不安に揺れていた。
どこかに自分の居場所だってあるんじゃないかって。
安心を求めて彷徨う一つの魂があった。
傷付いて、恐怖に怯えて、不安でいっぱいで、それでも誰かを信じてみたいと世界を諦めていない小さな一人のアズサがいた。
そのときだったのだろう。
俺はこの可憐な少女をその地獄から救い出すヒーローになるために生まれてきたんだって、そう臆面もなく信じた瞬間は。
「——いつも、一人で寂しそうにしているアズサのことを助けたいと思ったからお前のもとに来たんだ。あのときの俺にはアズサをどうすることもできなかったけど。ただ、アズサと遊んでいただけで、他に何もできなかったけど。」
でも、
「でも、それでもアズサは俺のことをヒーローだって思ってくれるんだろ」
「そう、君は、僕のヒーロー。僕を地獄から救い出してくれたんだ」
アズサはきっと、何かに少し気づき始めていた。
涙も拭けないままで綺麗に、でも、すごく寂しそうに笑ってみせる。
「だから、さ。俺はアズサが好きになってくれたヒーローな自分でいるために、アズサを許しちゃダメなんだよ。そして、これ以上、アズサに新しい別れを生み出させるわけにはいかない……」
俺はもう涙を我慢できなかった。
声を掠れるくらいに俺は叫んだ。
「アズサ!」
俺は衝動に身を任せて、アズサに抱きついてしまおうかとも思った。
本当に俺はアズサへ向けて駆け出そうとしていた。
でも、実際の俺はアズサに背を向ける。
「俺は、アズサと別れるのが怖いよ!」
視界からアズサの姿が見えなくなって。
真っ赤な壁だけが横に通り過ぎていき。
赤く照らされた玄関の扉だけが見えるようになった。
これから永遠に、アズサを見ることはできなくなるんだ。
「今だって、これからだって。この先一生、俺は別れが怖い!」
扉なんて開いていないのに、目の前から凄まじい風が吹いてきた。
目を開けていられないほどの風にバサバサと暴れる髪を押さえる。
猛烈な風がこちらへ吹き込んできて、俺の足をアズサのいるここへと止めようとしてくる。
俺は俺自身に負けないように掠れた声を張りあげた。
「今日だって扉を開くのにすごく時間かかった!明日も明後日も、きっと俺は扉を開けるたびにお前を思って怖くなる!誰かを失うことを思って怖くなる!」
でも俺は。
足を上げて。
風に逆らって。
「……でも、俺は」
風が少しだけ弱まった気がした。
俺は一歩、玄関へ向かって歩く。
アズサと俺だけの世界から、たくさんの別れの待ち受けている外の世界へと。
「俺は、それでも進むよアズサ。怖いけど。怖くてたまらなくても、それでも——」
また、一歩進む。
またひとつ、俺は玄関へと近づく。
風に煽られて霞む目で、俺は扉の前に立って。
俺は、扉の取っ手に手をかけた。
「——別れが怖いままの俺で、先へと進むことにしたんだ」
「……トモ君!僕は——」
扉が開かれる。
俺は外へと出る。
最後にアズサの声が聞こえた気がした。
『待って』と言ったようにも聞こえた。
『ごめんね』と言ったようにも聞こえた。
『好きだ』と言ったようにも聞こえた。
ただの風の音のようにも思えた。
俺は扉から出るとき、一瞬だけ後ろを振り返った。
赤い部屋が崩れて赤い塵となって宙へと溶けていく。
その塵の中にアズサもいた。
絡み合った糸玉が解けて消えていくように、宙にアズサの体が溶け去っていく。
アズサの顔はよく見えなかったけど。
俺は、彼女がなぜか安らかに微笑んでいたように思えた。
——そして。
俺は
『ガチャン』
と音をたてて、扉を閉めた。




