31話
何をどうやって、家に辿り着いたのか覚えていない。
俺は気づけば家の中にいた。
空っぽの頭の中には何もなかった。
いや、実際には全部があって、全部が混ざっていた。
俺が犯人なのか?俺がそんなことしてるはずはない。フミは本当に死んでいるのか?死んだはず。情報は信頼できるのか?信頼ってなんだ。俺が夢遊病患者みたいになっていてそれで……。何を考えればいいんだ?何を求めればいい?サキは死んでない。死んでないはずだ。白宇根先生も死んでない。重傷ってどのくらいが重傷なんだ?重傷から悪化して死ぬなんてこともある。いや、そんなわけがない。サキとはあの会話が最後になる?どうにかして謝りたい。もう一度……。
そんな問いかけが、いつの間にか現れていた赤黒い炎に包まれたあの扉の周りで回っている。
不定形なそれらは引き合っては絡まり、くっついては離れる。
最後まで行ってはまた最初から。
そして、あの扉へと吸い込まれていく。
繰り返して、繰り返して、延々にループし続け、そしてまた最初に戻って。
最後に残ったのは。
『多分。俺はもう扉を開けなければいけないのだ』という使命感だけだった。
俺は、この扉を開けたらもう戻れないということを魂で知っていた。
この扉を開けたら。
この扉を開けてしまったら。
もう戻れない、きっともうこのぬるま湯の中にはいられない。
今日ここにアズサは、いない。
俺はアイツに頼ることはできない。
それ以上進むな!と叫ぶ声と、その先へ行け!と叫ぶ声とが頭の中で叫んでいた。
俺は、まだ治りかけのかさぶたを無理矢理ひき剥がそうとしてるだけなのかもしれない。
でも、俺がずっと恐れていた何かがすぐそこにある。
すぐそこだ。手を伸ばせばすぐそこに。
俺はそれを思い出しかけている。もう、喉奥を通り過ぎて、喉から口の中へ、そして唇のすぐ内側まで。そのナニカが現れてきている。
ナニカが瞳の奥で、瞼の裏でチカチカと瞬き始めている。
耳の中で反響している意味をなさない音の塊がだんだんと形を持ち始めている。
『俺はこの扉を——』
「——開けなければいけない」
幼児のように、よたよたと二、三歩進んだ俺は取り憑かれたようにすっと手を扉の取手に添えると、あっけなくそれは開いた。
何度も夢の中で見た、何度も両親と一緒に見た、何度もアズサと見た、幼少期の家の玄関を出てすぐの景色。
向かいの家の青っぽい屋根も、すぐ横の曲がり角のちょっとひしゃげたカーブミラーも、全部があった。
正面には、いつか見た夢の日のように俯いている幼いアズサが立っていて。
そして、風が。
風が、吹いていた。
扉の向こうからこちら側へ吹き込んできた風が、どんどんと俺の体にまとわりついていた炎を消し飛ばしていく。
俺は凍てつくような寒さの中でゆっくりと歩いた。
アズサに向かってゆっくり歩いた。
自分の視線がひどく低くなっていることに気づく。
気づけば俺はあの頃の幼い俺になっていた。
アズサが顔を上げるとその瞳は涙でいっぱいになっていた。
紫紺の瞳が涙を溜めてアメジストのように光っていて、すごく綺麗だと思った。
俺は、カラカラの瞳に少しでも潤いを与えようと何回か瞬きをした。
俺とアズサの距離はだんだんと、でも確実に近づいて、最後にはゼロに。
棒立ちの俺に、アズサが抱きついてくる。
それは、幼子が幼子に抱きついている微笑ましい光景のはずなのに、ひどく妖しげな魅力を放っていて。
口を開いたのはアズサだった。
「お父さんもお母さんもいなくなっちゃえばいいのにってトモ君が言ってたから、名案だと思ったんだ」
俺の体にアズサの影から湧き出した蜘蛛の腕が絡みつく。
アズサは笑っていた。
全てから解き放たれたような自由な笑みを浮かべていた。
アズサの紫紺の瞳にはもう不安の影は見えず、俺の見慣れた自信に満ちた光が輝いていた。
「なんでこんな簡単なことに今まで気づかなかったんだろう」
じわりとアズサの瞳に炎の影が揺れた。
赤と黒の炎がアズサの体から滲み出してくる。
怪異が二つ。
一つしか宿せないはずの怪異を二つ宿したアズサは、ひどく嬉しそうに笑うと俺の唇にそっと口付けを落とす。
「——トモ君、ありがとう。僕を地獄から救ってくれて」
そして。
「ごめんね」




