24話
「ごめん、トイレ混んでて時間かかっちゃった」
「全然、大丈夫だよ」
僕はトモ君と一緒に海辺の遊歩道から離れ、帰りの道を歩いていた。
まだ、唇に感触が残っているような気がして、何度か唇を舐めてみる。
あまり格好は良くないので、トモ君の目を盗むようにして、だけど。
まずい、気を抜くと顔がニヤけてしまう。
やっと、やっとここまで来た。
黒炎事件にまつわる全ても解決した上に、遂に僕はトモ君と付き合うことに成功したのだ。
長かった。本当にここまで長かったのだ。
隣を歩くトモ君の顔はやっぱりいつも通りかっこいい。
もちろん初めて会ったときから、トモ君はずっとかっこよかったけど。
——僕にとって、彼との出会いは単純に二文字で表せる。
救い、だ。
僕は精神疾患の母親と、遺産目的で彼女に漬け込んだ精神科医の父親のもとに生まれた。
母親は頭がおかしく、僕を妄想の中の息子だとしていつも喚き散らしていた。
父親は元から金以外に興味がなく、僕に興味を持たなかった。
母親はいつも僕を殴った。
お前は誰だ?息子をどこへやったと言って。
僕は死にたくなかったから髪を短く切った。
一人称を「僕」にした。
怖くてスカートなんて履けなかった。
そんな僕がひどく曖昧な自我しか作り出せなかったのも当然のことだろう。
自分が男なのか女なのかも分からないまま。
どこに行けば僕が安心できるのかもわからぬまま。
誰も僕を見てくれない。
誰も僕自身には興味がない。
自分の名前ですら、それが本当に自分を指す言葉なのか、僕にはわからなかった。
そんな八方塞がりの泥沼地獄にいた僕を助けてくれたのが——トモ君だったのだ。
無謀な自信に駆られるままに。
無駄に大きいうちの庭に忍び込んできた彼と、幼い僕が出会ったのは今から8年近くも前。
浅い緑色の梢が揺れる春の日。
いつもとは違う香りが草木から匂い立つのを幼い僕は感じていた。
それは何かが起こる予感。
春の風が一つ吹いて。
——そして幼い彼が現れた。
小高い塀を乗り越えてスタッと僕の目の前に着地したトモ君は慌てたような顔をして周りを見回す。
そして僕に目を止めた。
「よう!俺はトモだ。お前の名前は?」
そう言って、太陽の数十倍は眩しい笑顔で、僕に手を伸ばしてきた。
そう、彼は笑顔で僕に名前を聞いたのだ。
僕にこの生で初めて笑いかけてくれた。
僕の名前を知ろうとしてくれた。
僕自身を、知りたいと思ってくれた最初の人。
それはまさに真っ暗なトンネルの先に見えた光。
鬱蒼とした森の中で周りに怯えて縮こまっていた僕の前に現れた救い。
そして僕はトモ君と度々遊ぶようになった
彼と遊ぶ時間は唯一の心休まるときで、唯一安らげる場所だった。
彼だけが初めて僕をただの一人の僕として見てくれたんだ。
きっと、彼の魂の重力が強いのだ。
僕を惹きつけて離してくれない嫉妬深い重力。
ただ、僕を求めてくれるその力が、あの頃の僕にとっては泣きたくなるくらい嬉しかった。
あの日の彼の瞳の輝きと、伸ばされた手の柔らかさ。
あの日の芝の深緑と、どこまでも突き抜ける様な空の蒼さ。
今も、僕の魂に焼き付いている。
永遠に、あの時間に留まっていられたら。
あの場所に永遠に——。
ポケットの中に突っ込んだスマートフォンを思う。
トモ君は僕が女の子とイチャイチャしていたことは知ってても具体的にどこまで進んでいたのか知らない。
トモ君はそれを知っても、僕を好きでいてくれるのか。
それが僕には不安だった。
でも、あのベンチでの口付けの後にそう言った僕を笑い飛ばすかのように、彼ははっきりと言った。
「付き合う前に誰と何してたかまで俺に責める権利はないよ」
もちろん、浮気は嫌だけど。そう冗談混じりに付け加えたトモ君は、昔の自信満々だった頃の憧れの彼とダブって見えた。
そのあとふざけてなんなら今から証明して見せようか?
そう言ったトモ君はあたりの光景に気づいていないようだったので、僕は平然とした顔で「うん」と首肯して見せる。
そして近くの建物を適当に一軒指さしてみた。
「……」
彼は気づいていなかったようだけど、ここは、めちゃくちゃホテル街。
僕は何回か女の子と来たことがあったから知っていたが、彼は知らなかったようだ。
「僕は大丈夫だけど、他の女の子に告白した後すぐこっち歩いてきたら即嫌われるからね?」
一応、そうアドバイスしておいてあげると、トモ君は「だ、大丈夫っ!?」とか叫んだ後に慌てて誤魔化しにかかっていた。
トモ君は単純なのだ。
僕が笑いながら、冗談だよ、というと、トモ君はなんだか残念そうな顔をする。
「そう、冗談。とりあえず、今日のうちはね」
僕は彼の腕を取ると、軽い足取りで駅へと歩き出した。




