1話
『――【黒炎】と呼ばれている一連の怪死事件が起きてから、今年ではや10年……確認された犠牲者の数は今回を含めると39人にも上り、市民の警察に対する不信感は日に日に強まっています……何らかの怪異を使ったと目されるその犯行は――』
テレビ画面の中では生真面目な顔のキャスターがいかにも深刻そうに原稿を読み上げている。
アズサはその様子を一瞥し、俺の斜向かいの椅子に座ってあくびした。
アズサのいつもの定位置だ。
彼女は目の端に浮かんだ涙をくしくし擦りながら、体を軽く後ろに捻って、いつものように背面の遮光カーテンを開ける。
カーテンを握るその白指に、朝日の蒼っぽい色合いが反射した。
「そういや今日って、おばさん早出の日だったかな?」
俺は冷蔵庫を開けながら、作り置きのシチューの鍋を引っ張り出す。
「いつものことだろ」
コンロのノズルを捻ってガスを出した俺は、そばに転がっていたチャッカメンをカチッと鳴らして、ドカッと鍋を載せた。
おばさんはなぜにこんな旧石器時代のコンロを使っているのか。
こんな今風なダイニングキッチンにわざわざ追加料金までかけて。
そんな俺の不満げな様子を察したのか、水を取りにきたアズサはニヤッと笑った。
「いつものことじゃないか。そのコンロの古さもトモ君のキュートな顔も」
そう言ってこちらの顎をついーっとなぞってきたアズサの手を払いのけて、俺は食器棚を開ける。
「火、使ってるんだからふざけないでくれ。あとご飯ついどいて」
「はいはい~」
しばしの間、食器の軽く触れ合う音と軽い足音が朝の時を満たす。
俺はおたまでシチューを器に交互に注ぎながら、横目で机に茶碗を置いているアズサをチラリと見た。
彼女は俺の一個上の幼馴染だ。
うちの高校で生徒会長をやってて、まあ、いわゆる文武両道完璧超人――に近い。
そんなあいつのほぼ唯一にして最大の欠点が手の速さと気の多さだろう。
ミーハーな女子にはやたら人気だが、あいつと付き合いが長いやつほど微妙な顔をするくらいには気が多い。
しかもあいつは女寄りの両刀だ。
昨晩もどこかに出かけていたようで、今もせこせことメッセージアプリを触っている。
あいつのSNSのフレンド一覧は壮観である。上から下まで揃ってアズサの毒牙にかかった女の子のリストなのだ。
俺に言わせてみればただの変態だが、奴の毒牙にかかった女の子は数知れず、羨望と同じだけ恨みも買っているような、そんな奴。
そして、俺よりも背が高い。
もう一度言う。
俺よりも、背が、高い。
さっきも上からこちらを見下ろして顎クイをしようとしてきたのだ。
なんだ!?つまりは俺の背が低くて顔が女っぽいから俺は守備範囲内ってか!?
そんな憤りを込めてあいつの器にだけ胡椒を多めに混ぜ込んでおく。
ついでに作っておいたサラダも一緒に引っ掴んでダイニングテーブルにそっと置いた。
スマホを片手にシチューを掬ったアズサが一口含んでゴフッと咳き込み始める。
ざまぁ。
涙目でクシャミを連発し始めたアズサを横目に、俺は一つため息をついた。
「――あ、そういえば来週転校生が来るらしいよ?」
飛び散ったシチューを拭ったアズサは丁寧に布巾を畳んですまし顔をする。
一応、黒胡椒はあの後避けておいた。もったいないし晩飯のカルボナーラにでも突っ込むつもりだ。
「転校生?今7月だけど」
「そう。季節外れだよねー」
さりげなく胡椒をこちらの器に入れようとしてきたアズサの手を押し返す。
「おっとこんなところにも可愛らしいソーセージがある。胡椒かけないと」
「くたばれ変態」
そこからシームレスにこちらのズボンに胡椒ミルを突っ込んでこようとしたその手をもう一度押し返した俺は、食器を持って立ち上がった。
「転校生。かわいい女の子だといいなー」
呑気な顔でそう宣ったアズサは、優雅にプリンを一口食べて頬を緩める。
俺は蛇口を捻りながらちょっとだけ背伸びをしてアズサの方を覗く。
プリン。プリンはいいものだ。
自分で言うのもなんだが俺は自身のプリン心眼には相当な自信がある。
そう。あの青いパッケージが特徴的な高級プリンは駅前の有名店の限定品。
滑らかな口溶けの中にかなり苦めに作ってあるカラメルのコクが……ってあ!!
「おい!それ、俺が買ってきたプリンなんだけど!」
「これ、ほんっとうに美味しいねー」
「いや返せ!せめて八百円払え!」
皿を洗いながら食ってかかるこちらに対し、アズサはこれ見よがしに形の良い眉を上げてみせる。
「え、いいじゃん。別に減るもんじゃないし」
「いや、今バリバリ減ってるから!みるみる量が減ってるから!!」
アズサは何を怒っているのかさっぱり分からない、とマジで思ってそうな顔をしてこちらを見てくる。
「あ!あーんしてあげようか?」
そして得心がいった、と言わんばかりの顔をした彼女は、やったら入念に舌で舐ってから、スプーンをこちらへ向けてきた。
「いらん!あとその『やれやれトモ君は欲しがりだなぁ』みたいな顔やめろ。顔を近づけるな。口移ししようとするな」
俺はアズサのケラケラと笑う声に背を向け、居間の扉へと向かう。
そして何気なくそのドアノブに手を添えて、添えて――
耳がキーンと鳴った。
――俺はその扉を開けなかった。
そんなことはあるはずがないのに。
なぜか扉の先から火花の散る音が聞こえた。
視界が斜めにずれる。扉の輪郭が分裂してぐるぐる回りながら左右に離れていく。
これは幻だと自分でもわかっているのに。
ここにあの地獄がまた現れることなんてない、と頭ではわかっているのに。
なんで俺の体は扉へと倒れていくのだろう。
普段なら足で踏ん張ればそれだけのはずなのに、足にはうまく力が入ってくれない。
理性では手を前について体を支えなきゃいけない、とわかっている。
でも、腕はただいたずらに震えを訴えるばかりでこちらの言うことを聞いてくれない。
あ、だめだ。倒れる。
そう心の中で呟いて、眼前に迫った現実から逃れるように俺は目を瞑った。
ぐらりと周囲の世界が後ろへ遠ざかり。
そして俺の体が力無く扉にぶつかる寸前。
「おっと、大丈夫かいトモ君?」
俺の体を引き留めたのは、アズサの影からずるりと伸びた3対の黒い腕――1対欠けた蜘蛛の腕だった。
節が7つあるその影の塊は毛むくじゃらで、つるりとした先端部分の爪が、俺の体を器用に引き留めている。
アズサは椅子からすい、と降りると、影の腕を曲げ縮めながらこちらへ向かって歩いて来た。
3対の腕はキチキチキチと関節を擦り合わせながら蠢く。
そして彼女は影のように黒々とした蜘蛛腕から俺の体を受け取り、そっと抱きついてきた。
彼女の控えめな胸が俺の体に密着する。
俺の荒い息の音。
アズサのゆったりとした息の音。
アズサの呼吸する音が俺の暴れ出したくなるような恐怖を少しずつ宥めてくる。
喉が詰まったようでうまく息のできない俺の髪を、アズサは数度柔らかく撫でた。
抱き合う俺とアズサの周りを蜘蛛の腕が丸く取り囲む。
まるで、誰もここへは近づけさせない、というように。
「ゆっくり息を吸うんだ。何も考えなくていいよ。嫌なことは全部忘れてしまおう」
そう呟いた彼女は妙に芝居がかった仕草で居間の扉を開け放つ。
『ギュイッ』と音を立てて扉が開いた。
俺はその扉が開く音にギュッと目を閉じて。
アズサの少し冷たくて、でも暖かい手のひらが頭を撫でる感触を感じて。
そして、おずおずと瞼を開ける。
――扉の先に広がっているのはいつも通りの廊下だった。
明け方のちょっと薄暗い床も。
小物置きの机の上の時計も。
まとめ買いして置きっぱなしになっているトイレットペーパーの袋も。
全部いつも通りだった。
やっぱりそこにはあの赤い炎も黒い炎もさっぱりなくて。
いつも見飽きた日常の風景があった。
「よーしよし。大丈夫さ。大丈夫。僕はどこにも行かないよ」
そう言いながらアズサは俺の頭を幾度も撫でる。
気づけば俺たちの周りを囲っていたあの鉤爪は、アズサの影の中へ姿を消していた。
アズサは妖気の名残を漂わせながら、慈愛に満ちた表情を浮かべる。
彼女の抱擁は柔らかく、でも確かに俺を抱きしめていた。
こういうとき、絶対にアズサはちょっかいを出したり揶揄ったりしてこない。
こいつがもっとイヤな奴なら、俺はこんなに劣等感を拗らせることもなかっただろう。
こいつの腕の中で、こんなに安堵の涙を流すこともなかっただろう。
俺はアズサの背に腕を回して。
少し躊躇ってからギュッと抱きしめ返した。
それは、嫉妬と敗北感と安心感の混ざったグロテスクな塊。
抱き慣れた『現実逃避』という名の安らぎだった。




