プロローグ
『――●●●が悪いんだ』
脳裏に、誰かの声の残響が鳴っている。 火炎に照らされて熱を持ったドアノブ。
深夜を指す時計が壁にカタカタと揺れている。
電気の消えた子供部屋に、赤と黒の光が怪物のような形の影を描いている。
俺は一人で、扉の前に立ちすくんでいた。
『――最初から■を地獄から救い出さなければ』
扉には鍵がかかっていた。
古ぼけて、今にも壊れそうな錆まみれの鍵。
扉へと手を伸ばそうとするも、震える手はうまく言うことを聞いてくれない。
扉の縁からこちらへ噴き出てくる炎は、扉一枚隔てた向こう側が煉獄となっていることを示していた。
チラチラと覗く炎の色は緋色と蒼黒い色の混じった奇妙な色をしている。
『――最初から■を地獄から救い出さなければ、●●●がこんな思いをすることも、なかったのに』
また、誰かの声が聞こえた。
ゴウっと炎が燃え上がる音がして、ガタガタと扉が揺れた。
なんとか炎を押し留めている扉の鍵は今にも壊れそうで。
俺は扉の取手に手を伸ばしたまま、馬鹿みたいに凍りついていた。
『——■がこんな思いをすることも、なかったのに。こんな思いを抱くことなんてなかったのに』
俺は扉を開けなかった。開くことができなかった。
焦りと恐怖が背筋を舐めるように撫でる。
夢だ。これは悪い夢だ。
そう呟こうとする細い喉を伝うものは汗か、涙か。
その『誰か』は、声を震わせながら自嘲するように吐き捨てた。『――●●●がこんな思いをすることも、なかったのに』
そして。
俺は扉を開けない——。
*
「……朝か」
また、あの夢を見ていた。
じっとりと滲んだ汗の名残が、夢の熱気の名残を感じさせてうざったい。
炎なんてかけらも見当たらないいつもどおりの自室は、青っぽい朝の光に膨らんでいる。
そうだ、あれは昔のことだ。今とは何の関係もない昔のこと。
あの事件があってから、俺は——【比良坂トモ】は、ここで暮らし始めたんだ。
確か、そう。
そうだった。
見慣れた天井は薄明かりに照らされて、モヤっぽく光っている。
俺の頭の中身も、まるでその靄の中へ溶け出ていってしまったように、思考が定まらない。
俺は大の字で全身をベッドに預けて、海底から水面を見上げるみたいに、消えた蛍光灯をしばしの間眺める。
枕元の時計はまだ、6時半を指している。
カーテンの端から、少しだけ窓の外を覗いてみたそのとき。
突然に階段を上がってくる足音が、どこか夢の続きみたいなその沈黙を破った。
自室のドアが『ギュイッ』と音を立てて開く。
「おっと、今日は普段よりも早起きだね。おかげでイタズラし損ねた」
ごろんと顔を左に傾けると、そこにはドアに片手を添えた純白の麗人が美しく立っていた。
白のスラックスとブレザー。
淡い紺のシャツがよりその白さを際立たせている。
灰がかった髪は天使の輪を浮かべたベリーショート。
その下には可愛らしいというより凛々しいといった形容詞が似合う中性的な美貌があった。
まるでお伽話の王子のような装いをした彼女は、イタズラっぽく紫紺の瞳を緩ませ、ゆるりと笑う。
見慣れているはずのその姿に、俺は一瞬バカみたいに見惚れてしまい、目をそらした。
そして彼女はいつもみたいに清々しい笑顔で、清涼飲料水のCMみたいな爽やかトーンで。
朝イチから最低なことを言い始めた。
「今日もいつもみたいにトモ君のヤングトモ君が朝日とともにグググッと登ってくるところを観測したかったんだけど」
「……」
「ゴミ箱の中身を見る限り、昨日はフィニッシュしなかったのかい?僕的には寸止めしようとして顔を歪めるトモ君の顔を想像するだけでご飯三杯、いやオカズ十回分になるからいいんだけど」
「……」
「あ、エロ本の隠し場所変えた?君のお気にだった丑三つドンキー先生の新作買ってきたから一緒に置いておこうと思って持ってきたのに」
「……」
「それに僕としては……」
「……なぁ、アズサ」
「なんだい?」
幼馴染の【早乙女アズサ】はその究極的美貌を凛々しく綻ばせてこちらを覗き込んでくる。
なんでこんな奴が学校で一番モテてるんだよ、しかも女子に、とか。
なんでこんな奴がうちの学校で一番強いんだよ、とか。
なんでこんな奴にいつも俺は安心させられてるんだろう。
なんでこんなにもこいつがどこかに行ってしまわないってホッとしているんだろう。
なんでこんな奴に……。
……こいつが。こいつがもっとヤな奴だったなら、きっと俺はこんなに自己嫌悪なんてしなくてよかったんだろうに、とか。
何度も何度も、今まで擦り切れるほどに繰り返した自問自答をなぞる。
アズサの顔を見つめたのち、なんとなく右手で股間を隠した俺は、ごろんと右に転がった。
「いや、なんでもない」
「ああ、そう?僕としては今日も君の汗とトモ君の遺伝子の芳しい香りを全身で感じられて幸せな1日の予感を感じて……」
「あの、やっぱり帰ってくれ。朝からそのノリはきついって。今、朝イチだから」
いや、こいつに安心感とか感じてないわ。微塵もないわ。
鶏が『え、キモ』って素で言っちゃうレベルの鳥肌立ってるんだけど今。
寝っ転がったままで俺は腕をアズサに向けて振りかぶり。
そしてアズサに片手で手首を押さえられた。
尋常じゃない力で押さえつけるアズサの腕の細さは、俺の敗北感をまたもやつついてくる。
劣等感。
その三文字を目の奥に押し込んで、俺はアズサを睨みつけた。
スラリと伸びた白い指が前髪を掻き上げる。
片手で俺を封殺しつつアズサは、歯をキラリと光らせてはにかんでみせた。
「え、いらないの?丑三つドンキー先生の新作?」
俺は15秒しっかり長考してから、ごろりとアズサの方に向き直った。
「……いや、それはいる」
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