16話
今日は珍しく、フミが留守のようだった。
おかげでそれまで一日中フミにくっつかれていたアズサが自由になったため、以前していた訓練を再開することにしたのが今日の昼過ぎだ。
アズサが俺に体捌きや体運びを教える
俺はアズサの蜘蛛腕の動きのコンビネーションを避ける。
前は毎日のようにしていたこの訓練も、俺の発作が悪化したり、叔母さんが亡くなったことでバタバタしていたこともあって、最近はできていなかった。
そんなことを続けること小一時間。
アズサの発案で、俺は自分の異能の使い方を調べることにした。
「とりあえず、レストランのときには異能が使えたわけじゃないか。それで、トモ君はそのとき存在しない扉が見えて、それを開けた」
アズサは今日も露出ゼロの格好で堂々と立っている。
それに対して俺は忙しなく手を動かしてシャツに染み込んでしまった汗を乾かしていた。
「……だけどあの後、扉自体が出てこなくなったんだ。何とか扉を呼び出そうとしてもうまく行かないし」
「強い目的意識が必要なのかもしれないよ。トモ君はあの日、僕を守りたいって強く思ったから異能が使えたわけだよね」
「……まあ、そう」
「……何だか面と向かって言われると照れるね」
アズサは照れているようにはとても見えない素振りでそう嘯くと、赤くなり始めた夕陽が彼女の顔にかかった。
彼女は何でもないかのように話をもどして見せる。
「目的意識はどうにもならないから、逆に別の場所を強くするとかはどうかな。たとえば実物の扉を開けて能力を使ってみるとか」
「……」
その発想は、確かに今の状況を変えてくれそうな提案だった。
すぐそばにガラス造りの温室があるので俺たちはそこへ移動する。
ガラス張りの温室はこちらから中が覗き見れるようになっており、エキゾチックな色合いの花や、複雑な形をした観葉植物などが中で群れているのが窺える。
この扉の先は見えるようになっている。いつもの扉とは違う。
そう念じながらドアノブへ手を伸ばし——案の定、俺は反射的に手を離してしまった。
額に滲んだ汗の感覚が情けない。
何でこんなこともできないんだ。たかが扉を開けるだけなのに。
だけど、やっぱり扉を開けることが怖い。
目の奥が刺すように痛み、じわじわ涙が込み上げてくる。
恐怖に冷え切った体をいじめるようにべったりと服が体に張り付く。
俺の視界がぐらつき始めたとき、ふと背にあたたかな感触があった。
アズサだ。
アズサの匂いがする。
アズサは無言で俺を抱きしめ続ける。
視界の端に、白銀の髪が揺れているのが見える。
彼女のゆったりとした心臓の鼓動を感じていると、俺の心臓もそれにつられて少しずつ、少しずつ落ち着き始めた。
俺自身の間隔の短い呼吸音がやっと聞こえ始めたあたりで、ようやく俺は口を開くことができるようになる。
「……ぉ、俺、汗かいてるから。やめろよ……」
干上がった喉から出たのはそんな不恰好な強がりでしかなかったけれど、それを聞いたアズサはしばらくの間慈愛に満ちた抱擁を続けた。
そして、俺を優しく抱き止めたままで、彼女はやさしく言った。
「無理しなくて大丈夫だよ。実物の扉を開くなんて深く考えずに言った僕が悪いんだから。だから、今日はもうやめにしようよ」
俺はそれをぼんやりと聞きながら、それもいいかもしれない、と人ごとのように思う。
そう、別にここでこの扉を開けたからといって何かが変わるわけでもない。
俺の能力が確実に分かると決まっているわけじゃないし。
別に、今ここでやらなくても。
そうだ、警察に追われているのがいつか解決したときに、サキの協力者の術師の人に頼んで検査を受ければいい。
確か、試験を受けて異能を測ることができたはず……。
——実際には発現した異能を測ることはできても、能力を使用していないときにそれを外部から測ることはできない——。
頭をよぎったその言葉を俺はなんとか振り払おうとして、何度も俺は繰り返す。
大丈夫だ。大丈夫。今ここでやらなくても……。
ふと耳障りな高い声が耳元で反響した。
『おい、アズサ!お前はすごい奴だけど、俺は絶対にお前を一人にしないからな!』
この声を俺は最近何度も聴いている。この次は……。
『俺には怖いもんなんて何も無い!お前にもいつか追いついて、追い越してやる!』
そう。俺はかつてそう言った。
俺とアズサは今、こんなにも近くにいる。
俺の背中にはアズサがピッタリとくっついている。
俺の胸元へ回された彼女の腕が、俺とアズサの距離がゼロに限りなく近いことを雄弁に物語っている。
でも。
それはきっと一時的なもので、アズサは本当はもっと遠いところにいるんだ。
辛さからも、寂しさからも、怖さからも超越した遥かな彼方。
俺は点になったアズサの背中を見つめて、この場所にうずくまっているだけ。
『俺は絶対にお前を一人にしないからな!』
もう一度、また、声が聞こえる。
いいのか?
このままアズサの背を見ているだけで——。
「違うだろ」
「……トモ君?」
アズサの疑問の声が聞こえる。
違う。そうじゃないだろ。
俺はあの日。
レストランで扉を開けた日に決めたはずだ。
アズサを絶対に一人にはしないと、俺はあの日に決めて扉を開けたんだろ。
開けよ。こんな、中の見えてる扉。
開けよ。こんな、こんな扉くらい。
開け!開け!開け!
俺は震える右手を、無理やり逆の手で押さえつける。
俺の手とドアノブの距離がゆっくりと、でも確実に近づく。
開け!開け!開け!
ドアノブを握った俺は間髪入れずにそれを回す。
少しでも躊躇したらもう、開けないと思ったから。
「……開け」
そして。
俺がガラスの扉を押すと、それは『ギュイッ』と音を立ててあっけなく開いた。
中はただ、外で見たのと同じ光景が広がってるだけ。
もちろん赤と黒の火が燃えていることもなかったし、誰かの死体があるはずもなかった。
ただの観葉植物と花がそこにあっただけだった。
「…………はあぁー」
しばらくの間息を詰めていた俺は、大きくため息をつく。
それはたまった疲れと、緊張感がもたせていた心臓の強張りと——そして確かな達成感の証。
「ト、トモくん……」
アズサが俺の体をくるりと向き合わせると、改めて抱きついてきた。
「ちょっ!」
俺はアズサに押されて地面に倒れ込んだ。
地面に大の字に寝っ転がった俺の上に、アズサが壁ドンならぬ、床ドンをしている。
これじゃまるで俺が襲われてるみたいだ。
そう、ふざけた考えが浮かぶくらい、俺は浮かれていた。
まだ実感は湧かないが、俺はやったのだ!
ついに自分の手で扉を開けられたのだ!
ガラスに反射していた光が少し角度を変えたのか、よく見えなかったアズサの顔が見えるようになる。
俺はポツリと呟いた。
「……アズサ?」
アズサは、泣いていた。
いつも余裕を崩さない、あのアズサが泣いていた。
彼女の瞳からポタポタと雫が落ちて、俺の顔に垂れる。
「トモくん……トモくんが扉を……自分で……」
アズサはしゃっくりあげながら、そう、本当に嬉しそうに言葉を漏らす。
「……なんだか、そう聞くと、俺が今までどんなにちっぽけなことで悩んでいたかが分かるよ」
何だか照れくさくなってしまった俺が目を合わせないようにして顔に落ちた水滴を擦ると、アズサは首を左右に振ってみせた。
「……違うよ。全然ちっぽけなことじゃない。トモ君はいま、自分で今までどんなに頑張っても越えられなかった壁を乗り越えたんだ。それは、すごくて、すごくて。言葉じゃ言い切れないくらいにすごいことだよ」
アズサはそう言ったあと、涙を溜めた紫紺の瞳をくしゃっとさせて完璧な笑顔で笑って見せた。




