10話
形勢は完全に反転していた。
アズサの蜘蛛腕はモグラ叩きのように相手の火炎人形を押し潰し続け、今度は相手が防戦一方になる番だった。
目にも留まらぬ速度で襲いかかる火球も、押し寄せる炎による波状攻撃も、アズサが指揮者のように手を振るとソレに応じて振るわれる蜘蛛腕が全てを薙ぎ払う。
最強。
アズサはまごうことなき最強だった。
あんなにも無法にも思えた相手の強さが霞むほどの圧倒的な差がアズサと相手の間にある。
実際、アズサは汗ひとつかかず、無表情で相手の攻撃を封殺し続けている。
「このままいけば……」
その圧巻の状況にポツリ呟いたサキに対し、アズサが苦い声を漏らす。
「うーん。これはちょっとばかりまずいかも。相手が消耗する気配が見えない」
潰しても潰しても相手は無尽蔵に復帰してくるのだ。
もしかしたら回数制限があるのかもしれないが、それはこちらからは分からない。
「弱音は好きじゃないんだけど、お世辞にも僕の異能は燃費がいいとは言えないからなぁ」
世間話をするかのような平板な調子で告げられたその言葉は、この状況においてはあまりにも重みを持っていた。
急に恐ろしさが押し寄せてくる。
アズサが負ける?あの最強の代名詞のようなアズサが?
さっきまではあんなに頼り甲斐のあったアズサの背中がやけに小さく見える。
ひとつ、ふたつと迷いなく振られる腕が相手を押し潰す度に、一歩ずつ終わりが近づいてくる音がする。
アズサが力尽きて、そして、アズサが死ぬ……?
頭が、ひどく痛んだ。あまりの恐ろしさに頭が割れそうだった。
アズサとの別れ。
そんな馬鹿げた作り物語が藪蚊のように耳元で、目の前で、脳みその中で叫び散らしている。
そんなことが、あるわけがない。
あるわけが——。
不意に俺の視界にあるものが映って。
俺は情けなく悲鳴をあげそうになった。
汗、だ。
アズサの首筋に僅かに汗が滲んでいる。
嫌だ!やめろ、消えろ!これ以上見たくない!
俺の目が幻視するのはアズサが炎に巻かれて倒れていく姿。
そして、もがいていたアズサの動きがだんだんと弱まっていき、そして。
そして——。
——俺の目の前に扉があった。
いつの間にか現れた扉は最初からそこにあったかのように佇んでいた。
この扉を開ければ、この炎の外へと抜け出せるだろうか。
そう思った俺はまた、あの声を、子供の頃の俺の声を聞くことになる。
『なあなあ、開けないほうがいいと思うぜ』
俺の心の中から聞こえてくるその声は明瞭な口調でそう言った。
なぜだ?この扉を開けなくてもアズサは死なないのか?
『なあなあ、開けないほうがいいと思うぜ』
その声は、俺の疑問には答えてはくれない。ただ、開けるな、とそう忠告を繰り返すだけだった。
アズサが舌打ちしながら額の汗を拭う様子が、薄膜一枚挟んだ向こう側を見ているようにボヤけて見える。
アズサが汗を拭っているところなんて、いつぶりにみるんだろう。
こんな状況にも関わらずボーっとそう思った俺はアズサの背後から、恐ろしい熱量を内包した炎の槍が迫ってきていることに気づいた。
今日、初めて見るタイプの攻撃だ。
アズサは自分の腕が死角になって、そのことにまだ気づいていない。
——急に、全ての動きが止まった。
いや、時間の流れが極限まで遅くなった。
少し離れた場所から敵の隙を窺っていたサキ。
彼女がアズサの方へと駆け寄ろうと足を曲げようとしていた。
普段は無表情なサキが焦りという感情を全面に出して、何か叫ぼうとしている。
アズサは勘が働いたのか、それとも死に瀕した生命体としての本能だったのか。
彼女はひどくゆっくりと時が流れるこの空間でも、動きが目に見えるほどの速度で後ろへと振り向こうとしていた。
そしてアズサはゆっくりと目を見開き。
——俺は目の前に浮かぶ扉の取っ手を掴んでいた。
今まで近くにいたアズサがずっと遠くに見える。
いつも以上に、遥か彼方へとアズサが離れていってしまう。
このまま、俺が漫然とこの状況を眺めていれば。
アズサがいなくなってしまう。
そのとき、俺の頭をいっぱいにしていたのはただ、それだけだった。
気づけばあたりの光景は一変していた。
燃え盛るレストランから、昔住んでいたあの家の玄関へと。
焦げ臭い匂いが鼻の奥に蘇る。
これはきっと背後で焼死体になっているお父さんとお母さんの匂い。
でも、俺は後ろを振り返らなかった。
俺は渾身の力で叫ぶ。
「——俺はアズサを、アズサを絶対に一人にしないんだ!」
別れへの恐怖が俺の体をびしゃびしゃに汚した。
でも、俺は。
俺は『ギュイッ』という音と共に。
扉の外に、光の中に、飛び出した。
何も見えない純白の光。
その先にはずっと辿り着けないと思っていたあいつの背中が。
アズサが立っているような気がした。
そして、凍っていた時が進み始める——。
次の瞬間、俺の体から吹き出した赤黒い波動が、莫大なエネルギーを持っていた炎の槍を一瞬で消し飛ばした。
俺の背後に庇われたアズサがびっくりしたような安心したような笑みを浮かべているのが、なぜか分かった。
俺の体から放たれたドス黒い赤色の波は巨大なレストランの一室を丸ごと包み込み、赤一色に染め上げる。
すると、あれほど燃え盛っていた火の海はどこかへ失せてしまった。
ブスブスと嫌な音を立てる焼け跡だけがその場には残っており。
気づけば、あの影法師は燃え尽きたかのように消えてしまっていた。
ヤツが消えていることを確認すると、不意に俺の足から力が抜け、地面に座り込んでしまう。
そして気を抜いた途端。
『ガシャン』
と音を立てて扉が閉まった音がした。
辺りを染め上げていた異様な赤色は俺の中に吸い込まれていく。
なんだかひどく体に悪そうな色をしているが、健康に害はないよな、とかどうでもいいことを考えた。
どうやら俺は知らず知らずのうちに息を詰めていたらしい。
俺が自分の長いため息を聞きながら他人事のようにそう思ったとき、ドヤドヤと廊下から十数人の警官隊が突入してきた。
異常だった空気感が、日常の延長上に戻ってくる。
疲れていた。とにかく疲れていた。
やっとか。やっとこれで、終わり。
精も魂も尽き果てた俺は、とりあえずどこでもいいから、早く寝転がらせてほしかった。
だが、現実というのは無常である。
目の前には俺のパンクしそうな脳の容量をさらに圧迫するような、ありえない光景が目の前に広がっていた
「比良坂トモ!ならびに早乙女アズサ!お前たちを黒炎事件の犯人の容疑で逮捕する!」
顔を固くした警官たちが仰々しく拳銃を構えてこちらを狙ってきている。
俺は疲れのあまりテンションがおかしくなったのか、半笑いで声を張りあげた。
「あのー。犯人はさっき逃げて行ったんですけど、見てないんですか?本当大変だったんですよ。もう火がビュンビュン飛んでてめちゃくちゃで」
俺の言葉を聞いた警官たちはさっと緊張感を走らせ、目を見合わせる。
「……私も証言する。犯人は……さっきまでここにいた炎使い……」
さらにサキの援護射撃を受けて、警官隊のうちの数人が指揮者らしき人物の方を窺った。
その男は嫌味な感じの目つきを細めてボソボソと何か呟くと、スッと銃を構えて引き金に力を込める。
「危ない!」
アズサの叫び声が聞こえ、眼前に飛び出したアズサの右腕からパッと血が飛び散った。
男の銃口からは煙が漏れ出ていた。
俺はアズサの白いジャケットがじわじわと赤く染まっていく様子を、ただ呆然と見つめる。
アズサのジャケットに血が滲んでいくにつれて、じわじわと俺の脳にも血が通い始めてくる。
あの男。アズサを撃ちやがった!
怒りにかられた俺が立ち上がろうとしたところを、アズサが制止する。
血の滲んだ片腕を抑えたアズサは囁くように言った。
「あいつら、最初っから僕たちに目をつけてる。消耗した僕らじゃ厳しい」
「……じゃあ、どうすれば」
「こうっ、するのさ!」
アズサが無事な方の手を振ると、蜘蛛腕がサキと俺、最後にアズサを持ち上げ、警官隊から一気に後ろへ遠ざかる。
「くそっ逃すな!奴らを逃すと……」
あの男の罵声が聞こえたのはせいぜいそこまで。
窓を突き破ってレストランの外へ飛び出した俺たちは、アズサの操る蜘蛛腕で屋根を伝って逃げ出した。
面白い、もっと続きを読みたい!と感じたらブックマーク、評価、リアクションや感想等お願いします




