第三話
翌朝、卯の刻の前にぱちりと目が覚めた若儀は、むくりと体を起こした。
春先であり、まだ外は明るくない。残念ながら日が出ている様子はなかったものの、空の端々が白み始めていて、朝の訪れを感じさせる。
早々に牀榻を整えて身支度を済ませると、外に出る。
未だ他の者が起き出している様子はなく、慣れ親しんだ木剣の触感を感じながら、日頃行っている日課を始めた。
素振り百本、寮の周りを走り込み、坐禅を組んで瞑想をする。それが終われば今度は突き、薙ぎ、払いの動きを想起しながら何度かそれを繰り返す。かつて母がやっていたように半時辰ほど体を動かして、ようやく若儀は動きを止めた。
また今日も、新しい太陽が生まれ始めていた。
じわじわと群青が侵食され、白、薄紅、橙といった色に染められていく。淡紅と薄まりゆく群青が混じり合って藤色へと輪郭を変えていき、見る見る内に蒼の幕は上がっていき、青碧の薄膜がかかる。やがて金色に輝く太陽がお目見えすると、若儀はふぅ、と息を吐いて、それを目に焼き付けるように見つめる。蜜のようにとろりとした金色は容易く目の奥を焼いたが、彼は躊躇うこともなく、しばらくそのままで居た。
不意に寮の方から少年たちが起き出す音が聞こえ始め、若儀は出していたものなどを急いで片付けて、部屋へと向かった。
扉を開けてみると、黎飛は未だ寝ている。また朝寝坊だ。
慌てて朝に弱いのんびり屋の黎飛を揺り動かして起こしにかかる。
「黎飛、起きろ!もう卯の刻だぞ……黎飛っ!」
「ん……あと……半時辰……」
さすがは寝汚い彼のことである。寝ぼけながらも完全に遅刻一直線なことを言っている。更に焦って若儀が大声を上げた。
「それだと遅刻するだろっ?!お前、準備一人でできないんだから早くしろって!」
「ん……るさい……」
不意に黎飛がそう呟くと、若儀の視界がぐるりと回って、背中から牀榻にばふり、と柔らかく叩きつけられた。
「んなっ……?!」
「おとなしく……ねててぇ、あーりゃお……」
むにゃむにゃと言った名前は……。
「誰だよ!」
切れ散らかして思わず、黎飛の頭に手刀を落として、絡みつく腕を剥ぎ取る。そのまま牀榻から無理矢理黎飛の体を起こさせて、寝てもあまり絡まらない黒髪にちょっとした嫉妬を覚えつつ、手早く髪を整え、白い髪紐で結い、衣を着させた。顔を濡らした手巾で丁寧に拭き、未だ半分寝たままの黎飛を連れて、全力で食堂に引き摺っていく。
そこへ声をかけてきたのが同じく紅楓寮の悠明月だ。
「ありゃ、若兄、おはようございます。今日も黎兄は起きてないんですか〜、朝からお疲れ様ですねぇ」
「悠兄、おはよう。そう思うなら、是非とも手伝ってほしいんだけど」
「私が背の高い黎兄を支えることが出来ると思うかい?」
「二人なら行けるだろ」
「いやいや、無理ですよ〜」
彼は武芸一族の出身だが、あまりにもそういう武芸事に興味を向けることがなさすぎて、兄に無理矢理 虎狼に入学させられたらしい。現に紅楓寮に入れられている時点で、お察しである。彼はどちらかと言うと、文化や書画などを好んでいるらしい。
「今朝は猪肉と里芋を使った汁物だそうですよ〜。うちの家繋がりで卸した猪肉なんですけど、これがまた絶品で……」
ついでに言うなら猪肉も好んで食べているらしい。
「兄上がよく野狩りで猪を獲ってくるんです。で、それがちょうど美味しい具合の猪で、いつの間にか食べ慣れちゃったんですよね」
「猪肉を食べ慣れることってあるんだな……」
「ありますあります、全然ありますよ!」
そんな力説を聞きつつ食堂まで歩いていると、漸く意識が浮上したか、急に黎飛が立ち止まった。
「……」
「お、起きたか?おはよう」
「おはようございます、黎兄」
黎飛は黙って顔を伏せ、突っ立ったまま、一言も声を発さない。不思議に思って若儀が彼の顔を覗き込むと、どうやら黎飛はまたもや彼に朝の準備をしてもらってしまったことを悟り、自省しているようだった。
「黎飛、大丈夫だって。今日はまだ十日目だから、気にしないでおこう?」
「……もう、十日目だ」
「お前は頭が固すぎる!しゃーないだろ、生活習慣が急に変わって対応できる人間なんて普通いないんだから」
ぽんぽん、と慰めるように彼の肩を叩き、若儀は「気にすんなって!」と声をかける。
「だが君は……ここでの生活にすぐに順応してしまっただろう」
「それは俺が元々こういう生活を送ってたからであって、もしお前みたいな生活をしてたら……さすがの俺だってここまで早くは順応してないよ」
だから大丈夫、と慰めると、何とか黎飛が立ち直ってくれた。ほっと息を吐くと、若儀は目の前に聳え立つ建物を見上げた。
一面玻璃で覆われた皿のような形状の建物だ。朝日を受けてキラリと光るこの場所こそが、食堂である。
「あら、おはよう!学生たち、今日も元気かい?」
食堂のおばさんこと、宋寧が鍋を振りながらそう問うた。明月がころころと笑いながら「元気でーす」と言うと、それを皮切りに後ろから来た虎狼生たちが今朝の献立を尋ね始めた。
「ねー、宋おばさーん、今日は何?」
「俺、腹減った〜」
「僕も!」
「今朝は猪肉と里芋の汁物と、炒飯だよ!あんたたちは朝からたくさん食べるから、量もたくさん用意しといたから、気にせず食べな!」
「わーい!」
歓声が沸き起こって、それを満足そうに眺めるおばさんの横をすり抜けて、三人組はするりと食堂の中へと入る。どうやら意外にも他の虎狼生よりも先に来れていたらしい。虎狼生がちらほらとしか見えない食堂の中を進んでいき、奥の方にある静かな場所を選ぶ。ここの方が比較的机が大きいのだ。四人で掛けるには丁度いい大きさのため、まだ十日目というのに、まるでいつもしていることのように三人組がどっかりと占拠した。
何故かと言うと……。
「あ、待たせたかな?」
「全然。いつも持ってきてもらってありがとう」
「無問題〜」
もう一人来るからだ。
黎飛よりも更に二寸ほど背の高い、金の癖っ毛と茶の瞳の、ガタイの良い少……年?見た目は完全に少年というよりも寧ろ青年にすら見えるほどだ。しかしその体躯の割には、とても優しい顔つきをしていて、性格も温和かつ穏やかなのだが、少し気が弱いところが玉に瑕だ。誰よりも力持ちで、何故か率先してご飯を持ってきてくれる……それを、若儀は有難く思いつつも、些か申し訳ない気もしていた。
彼の名は柳河。明月の部屋のもう一人だ。一応言うが、彼も十二歳である。見た目では十六歳と捉えられてもおかしくはないが。
汁物と炒飯が机に並んだところで、皆で手を合わせ食べ始める。彼らの話題は専ら本日の講義のことについてである。
「今日の講義さ、鷹先生なんだろ?悠兄のこと敵視してるから、また当てられるぞ〜」
「えぇ、本当ですか?!あの人、座学の講師なのにほんと脳筋だから嫌なんですよね……私とはすごく相性が悪くて困っちゃいますよ〜」
鷹先生とは話の通り、座学の講師だ。常勤で、三日ごとに担当になる。主に算学を教えているのだが、明月が初日にあまりにも算学が出来なかったため、「あいつの算学の成績を上げてやる!」と一人燃えているのだ。
「あぁ〜、どうせだったら、私も黎兄みたいに算学ができるように生まれてくれば良かったのに。そうすれば鷹先生に敵視されることもなかったのに〜」
「まぁそこは天命とかもあるわな……」
「努力の差もあるよねぇ」
「現実を見せないでくれよ、柳河〜」
ぶうぶうと文句を垂れつつ、明月が猪肉を頬張る。
「やっぱり私を裏切らないのは猪肉だけだ……!猪肉美味しい……うぅ」
「朝っぱらから泣くなよ?」
「私、今本気で泣いてやろうかなって思った……」
「やめろやめろ!お前がやると洒落にならない!」
若儀個人の所感としては……明月は、何となくだが演技がうまいと思っていたための言葉である。
とまあ、そんなこともありつつ朝餉を平らげた後、件の座学へと向かう。
「柳河、当てられたら答え教えてね……!」
「自分で考えなよ〜。僕は今回教えないから」
いっつも僕を頼ってばっかだと、何も出来るようにならないよ?と正論をぶちかまし、柳河は自身よりも小柄な明月を抱き上げてくるくると回した。
「ちょ、柳河っ?!」
「ちゃあんとできる子には偉いぞ―ってやってあげるから、しっかり勉強をしなさいな〜」
完全に子ども扱いをされて、明月が林檎のように真っ赤になってむくれた。しかし満更でもないことは見ていればわかる。若儀が生暖かい視線を送っておくと、明月がキッと睨んだ。
と、そこへ何も気にせず気づいたことを言葉にするものが一人。
「学舎の前で遊ぶのは危ない」
黎飛ののんびりとした声音を拾い上げて、若儀は「そうだなー」と聞き流しながら彼を連れて中へと入る。もちろん二人は置いてけぼりだ。
学舎はかなり草臥れたような印象を受ける、築八十九年の木造だ。初っ端の授業で有難いご講説を賜った、教師陣自慢のボロ屋である。長いことそこに在ること自体はすごいものの、中々それで使い勝手が悪い。たまに足場が抜けるため、要注意だ。既に足場が抜けて二人、柱が折れたのと梁が落ちてきので一人ずつ、怪我をしている。つまり家に居座る古狸と同程度厄介なのだ。
そんな中を軽やかに危なげなく移動して、講義を受ける部屋へと歩を進める。後ろの戸を音もなく開き、中を伺えば、集まるべき時刻の一炷香も前だと言うのに、既にちらほらと虎狼生達が居る。思い思いに過ごしている様子を見て、若儀は黎飛を連れて窓際の席へと着いた。
するとどこからか現れた集団の一人が、わざわざ「おい」と声をかけてきた。
(いつもいつも、ご苦労なこって)
半目になって、呆れた様子を隠しもせず若儀が視線を上げれば、やはり目の前には見慣れた顔ぶれが立ち塞がっていた。
「……あんたら暇なのか?」
「無礼だぞ!」
「貧民ごときが……」
「やはり賤民の血は良くないですなぁ!」
口を開いて直球で嫌味を言えば、そうやって自分から「暇です」と言わんばかりな言葉が返ってくる。しかし、呆れて(嫌味の語彙がなくて?)物も言えないのが黎飛、こういうのには慣れっこなのが若儀である。好き勝手に言われて黙ってるはずもなく、にっと口角を吊り上げて、よく回る口で煽り出す。
「そりゃそうやって言うに決まってるだろ。いつになったら飽きるんだ?わざわざ朝の清々しーい時間に因縁つけにやって来て、わざわざ本人に、わざわざ悪口を言いに来るなんてことをさ。本当に暇人だな。あぁ、暇なのか?勉強も何も出来ないから?それはそれは、お疲れさん。平民の出だろうと賤民の出だろうと、俺達は勉強ができるのに、高貴で尊い身分のご貴族様のあんたらができないんだもんなぁ、可哀想に」
実際、わざわざ若儀に絡みに来ている彼らは、虎狼生の中でも下の方の成績に位置している。だから、この煽りは真実であり、変わらない事実なのだ。
(それを事実と受け止められないからこそ、貧民のくせにだとかって難癖つけてくるんだろうけどさ。自尊心の高いこって)
冷めた頭でそんなことを思いつつ、黙り込んだ彼らを睨めつける。
「どうした?いつもみたいに絡んでみろよ?意気地のねぇ奴らだな。人に難癖つけるんだったら、もっとマシなやり方をしろよ。難癖のつけ方の一つもわからないで来て、一言言い返されただけで黙り込むだけなんだったら、俺に絡むなんざ百年早ぇよ、出直して来な。あと、講座の邪魔だから、とっととどっか行け」
怒涛の勢いで吐き出された言葉に為す術もないのか、彼らはうっと怯むと、暫しの逡巡の後、若儀に向かって「覚えてろよ!」と小悪党間丸出しで言い捨てて散って行った。
「おぉ、今日は僅か幾瞬の出来事でしたね。お見事です」
そんな状況で飄々と声をかけてくるのは、やはり明月だ。その隣には淡く微笑む柳河も居る。
「やっぱり居たのかよ……居たんなら止めてくれ」
「嫌ですよめんど……面倒臭いんで」
「……何で今、言いかけたの止めたのに結局言ったんだ?」
「そのよく回る口、僕にも貸してほしいものだな〜」
「貸せるもんじゃないだろ」
軽い冗談を交わして会話する中に「……はぁ」とため息が混ざるのは仕方がないこととも言える。
「面倒な奴らだな、ほんとに。嫌味も言い慣れてないし、言い返されたら黙り込むだけなのに、何で難癖つけようとするかな……」
「暇なんでしょうねぇ」
のほほんと口を挟む明月も十分に暇そうであった。
「代わりに嫌味受けといてくれ」
「私は一応名門とか言われてますんで言われませんよ」
「何か腹立つな」
「こういう時ばかりは自分の一族に感謝ですねぇ」
結局のところ、こういうところに入ったとて、上下関係や身分の問題がなくなるわけではないのだ。大半の貴族は自分の血脈に誇りを持っていて、それよりも下の者を蔑ろにしたがる。……まぁ、明月のように、変わった貴族もいるが。
そして、体が大きい柳河も……。
「僕はそもそも背が大きいから下手に手を出されたりとか嫌味言われたりとかはしないから大丈夫だよ」
ということなのであった。つまりは、若儀の身長が彼らよりも幾分か低いことが、彼らに攻撃をさせる気力を与えている、ということなのだ。
「いや、これから俺の背もちゃんと伸びるから……」
「つまり他の人も伸びるってことなんですけど、若兄、わかってますか?」
「わかってるよ!」
やはり身長があるのは便利である。
その後は何事もなく座学は終わり__とは言っても、予想通り明月は授業で鷹先生のご指名を受け、多分心中では泣きながらも見事正解して、彼を満足させていた。もちろん、若儀と黎飛は余裕であった。若儀は一通りの算学を「将来使うかも知れないから」と曾祖母の若星杏から教えてもらっていたし、黎飛は発明をする一環で更に高度な数学に手を出していたからであった。
本日も投稿します!一旦きりいいので!




