第8話
翌朝、私は執務室の扉を叩いた。
「お受けします。ただし、条件が一つあります」
「言え」
「毒見は、私のやり方でやらせていただきます。閣下の御前で、閣下の召し上がるものを、私が先に口にする。器具の検毒だけでは、あの遅効毒のようなものは防げませんから」
ジークハルト様の眉が、はっきりと動いた。
「……歴代の毒見役には、器具での検毒しかさせていない。人に口をつけさせる毒見は、俺が禁じてきた」
「存じています。ベルタさんから伺いました。ですが」
「駄目だ。お前が言った通り、敵は一度で諦める質ではない。次の毒がお前の体に入らない保証はない」
「入っても、私は死にません」
きっぱりと言うと、彼は虚を突かれた顔をした。私は一歩踏み込む。ここが肝心だった。
「私には毒が視えます。口に入る前に九割は弾ける。万一入っても、自分の体の中の毒くらい、自分で解けます。世界中探しても、私ほど毒見に向いた人間はいません」
「……随分な自信だな」
「自信ではなく、事実です。それに閣下、これは取引でもあるのです。私のような得体の知れない女を信じていただく代わりに、私は自分の体で誠意を示します。毒見とは、そういうものだと思いますから」
長い沈黙だった。窓の外で、朝の兵の号令が遠く聞こえる。やがてジークハルト様は羽根ペンを取り、契約書に一行を書き加えた。
『毒見の手法は、毒見役ミレイユの裁量に一任する』
「好きにしろ。ただし――」
ペンを置いた彼は、初めて私の目を正面から見た。
「死ぬな。俺の食卓で人が死ぬのは、もう見飽きた」
ぶっきらぼうな声だった。けれどその奥に、十年分の何かが沈んでいるのが分かって、私は深く頭を下げた。
「承知しました。閣下の食卓からは、もう誰も死なせません。私も含めて」
署名を終えると、彼はもう書類の山に戻っていた。話は終わりだ、ということらしい。ベルタさんの言葉を思い出す。言葉の足りない分は、察して差し上げてください。
部屋を出る間際、背中に声が飛んできた。
「給金は月初に払う。……足りなければ言え」
「十分すぎます。ありがとうございます」
扉を閉めて、私は思わず小さく笑ってしまった。不器用な人。でも、あの晩餐の広間で彫像のように立っていた人が、「死ぬな」と言った。それだけで、この契約書には署名する価値があった。
廊下で待っていたベルタさんに署名の報告をすると、彼女は「そうですか」とだけ言って、私の部屋を客間から使用人棟の南向きの一室に移すよう手配を始めた。朝日の入る、薬草を干すのに向いた部屋だった。口には出さないが、これがこの城の歓迎の作法らしい。
国に捨てられた私を、この城は「私にしかできること」で必要としている。
それは肩書きよりも、指輪よりも、ずっと確かな居場所の形をしていた。
同じ頃、遠い王都の大神殿では、月に一度の「浄化の儀」が執り行われていた。
祭壇の聖水盤を前に、新聖女ソフィアが両手をかざす。参列した貴族たちの目には、彼女の周りにきらめく光の粒が見え、感嘆の吐息が漏れた。なんと神々しい。先代とは大違いだ。
誰も気づかなかった。光に見惚れる人々の視界の隅で、聖水盤の水面が、ほんの一瞬――泥を落としたように、濁ったことに。
末席の老神官が一人、目をこすった。気のせいか。いや、確かに今。
しかし顔を上げれば、聖水はもとの澄んだ顔をして、聖女は変わらず輝くばかりに微笑んでいる。老神官は首を振り、見なかったことにした。
それが、崩壊の最初の一滴だった。




