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私を棄てた国が、頭を下げに来るまで  作者: 小林翼


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第6話

 井戸の件は、思わぬ形で片がついた。


 私が頼ったのは、あの商人のドニさんだった。名刺を握って商会を訪ねると、彼は約束通り話を聞いてくれた。井戸水を煮詰めて残る澱を見せ、鉱山の古い水路図と照らし合わせると、廃坑からの染み出しの経路まで筋が通った。ドニさんが街の役人を動かし、井戸は閉鎖、代わりの水汲み場が引かれた。


「命の恩人の言うことだ、疑う理由がない。……しかし姉さん、あんた本当に何者だい」


「ただの薬師見習いです」


 トマの熱はすっかり下がり、なぜか私の宿に居着いた。そして「薬草の目利きができる変わった女がいる」という噂は、ドニさんの口から商会の取引先へ、少しずつ広がっていった。


 辺境伯城から薬草の納品の使いを頼まれたのは、そんな折だった。



 初めて入った城は、装飾のない、機能だけでできた砦だった。私は勝手口で薬草を検品してもらい、帰るだけのはずだった。


 その悲鳴が聞こえるまでは。


「毒見役が倒れたぞ!」


「閣下、お待ちを! 杯にお口をつけてはなりません!」


 広間の方から怒号と足音。運悪く、私は騒然とする使用人の流れに巻き込まれ、晩餐の広間の入口まで押し流されてしまった。


 長卓の中央で、鎧のような体躯の男が立っていた。黒髪に、冬の湖のような灰色の瞳。あれが辺境伯ジークハルト・ヴァルデン様か。噂には聞いていた。北の蛮族を三度退けた戦鬼。笑ったところを誰も見たことがない領主。その人は、足元で泡を吹いて痙攣する毒見役の老人を見下ろしたまま、彫像のように動かなかった。取り乱すでもなく、ただ静かに――まるでこの光景を、何度も見てきた者のように。卓上には銀の杯が倒れている。


「検毒の水晶は反応しなかったのか」


「は、はい。器具はすべて確認を……ですが毒見役どのが、それでも胸騒ぎがすると仰せで、禁を破ってご自身の舌で検められ……」


 騎士たちの声が上ずる。私の目は、勝手に倒れた杯を視ていた。零れた葡萄酒。その赤の中に、二層の毒が透けて見える。


 ああ、駄目。あれを見誤ったら、この城の人たちは。


「――その杯、二種類入っています」


 気づけば、声が出ていた。広間中の視線が一斉に突き刺さる。騎士の一人が誰何の声を上げたが、私は構わず続けた。


「一つは検毒水晶に反応する即効性の痺れ毒。毒見役の方が倒れたのはこちらです。量が少ないので、命は助かります。吐かせて、白湯を」


「……もう一つは」


 低い声で問うたのは、辺境伯本人だった。灰色の瞳が、まっすぐに私を射抜いている。


「水晶に反応しない遅効毒です。三日後に心臓を止める類の。痺れ毒は囮です。毒見役が倒れて杯を替えれば安心する――その油断ごと、閣下を狙った毒です。即死毒より、ずっと狡猾な」


 広間が凍りついた。騎士が「戯言を」と剣に手をかけたが、辺境伯が手を上げてそれを制した。彼は倒れた杯を一瞥し、それから再び私を見た。


「証明できるか」


「杯の酒を鼠に。三日、お待ちいただければ」


「三日後に俺が死んでいたら、証明の意味がないな」


「ですから、閣下は今夜のお食事をすべて残してください。私が代わりの検め方をお教えします」


 我ながら大胆なことを言っている。けれど視えてしまった以上、黙って帰る道はなかった。辺境伯は長いあいだ私を見つめ、やがて低く問うた。


「……お前、今の毒の名を言えるのか」


「名前なんて、どうでもいいのです」


 私は倒れた杯を見つめて、答えた。


「ただ、これを作った人間の性格なら言えます。慎重で、執念深くて――一度で諦める質では、ありません」


 灰色の瞳が、初めてかすかに揺れた。


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― 新着の感想 ―
まだ、10話までしか読んでいないのですが、 この毒見役さんは、白湯をもらえて、 一命を取りとめられたのでしょうか? それとも、3日後に、ネズミさんの先導で、 旅立たれたのでしょうか? 遅効毒の対処法が…
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