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私を棄てた国が、頭を下げに来るまで  作者: 小林翼


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第48話

 聖誕祭の前夜、つまり結婚式の前夜、私は眠れずにいた。


 支度は完璧だった。ベルタさん率いる城の総力を挙げた準備に、抜かりなど一つもない。衣装は仕上がり、料理の献立は三度の検分を終え、招待客の宿も整った。天気も、山の民の観天望気によれば晴れ。


 完璧だからこそ、眠れなかった。


 寝台の中で目を閉じると、幸せの目録が勝手にめくれていく。明日、私はあの人の妻になる。この城の、この土地の、家族になる。三年前、王都の門を一人で出た人間が、だ。


 ――幸せすぎて、怖い。


 馬鹿げた感情だと分かっている。でも、毒見役の性なのだ。完璧な皿ほど、疑ってしまう。こんなに甘い日々に、毒が一滴も入っていないなんてことが、あるだろうか。


 眠りを諦めて、私は寝間着の上に肩掛けを羽織り、部屋を出た。喉が渇いた。白湯でも貰おう。どうせ厨房の竈には、種火が残っている。


 夜更けの厨房には、先客がいた。


「……閣下?」


「……ミレイユか」


 竈の前に、明日の花婿が立っていた。寝間着姿で、手には牛乳の鍋。私たちはしばし見つめ合い、それから、どちらからともなく噴き出した。


「眠れませんか」


「……ああ。お前もか」


「はい。……せっかくですから、二人分、温めましょう」


 鍋に牛乳を足し、蜂蜜を溶かす。竈の火が、暗い厨房に二人分の影を揺らした。出来上がった白い一杯を、作業台に並んで腰掛けて、ゆっくりと飲んだ。


「白状する」


 閣下がぽつりと言った。


「明日の誓いの言葉を、三十回は諳んじた。それでも足りん気がして、眠れん」


「私も白状します。幸せすぎて、怖くて眠れません。完璧な皿ほど疑ってしまう、嫌な職業病です」


「……分かる」


「分かるのですか」


「十年、疑って生きた。急に信じろと言われても、体が追いつかん。……だが」


 閣下は杯の湯気を見つめて、続けた。


「お前が教えてくれた。疑いを消すのは、理屈ではなく、毎日だと。お前は毎晩、俺の皿の前に座り続けた。一年三百六十五日、毒はありませんと言い続けた。だから俺は、飯の味を思い出した。……幸せも、同じだろう。明日から毎日、確かめればいい。二人でだ」


 ぐうの音も出ない、完璧な処方箋だった。この人はいつの間に、こんなに私の言葉で話すようになったのだろう。


「……ずるいです、閣下。私が言うべき台詞なのに」


「妻の口癖は、うつるものらしい」


「まだ妻ではありません。あと……」


 厨房の砂時計を見る。日付は、もう変わっていた。


「……あと、半日です」


 沈黙が、温かく落ちた。竈の火が爆ぜる。ふと、言葉が零れた。


「教えてあげたいです。三年前の、捨てられた日の私に」


「何をだ」


「あなたの人生で一番の幸運は、これから起こる、って。北の果てで、世界一不味い粥と、世界一のプロポーズが待ってる、って」


「……粥の話は、墓まで持っていけ」


「嫌です。孫の代まで語り継ぎます」


 閣下が呻き、私が笑い、夜更けの厨房に、二人分の笑い声が転がった。


 やがて杯が空になり、私たちは並んで厨房を出た。廊下の窓の外、いつの間にか、雪が舞い始めていた。聖誕祭の雪だ。三年前の王都にも、降っていた。


 あの夜、雪は私を凍えさせるものだった。


 今夜の雪は、明日の式を白く飾るために降っている。同じ空の、同じ雪なのに。


「冷えるな。部屋まで送る」


「はい。……ジークハルト様」


 命の瀬戸際でしか呼んだことのなかったその名を、初めて、何でもない穏やかな夜に呼んだ。閣下は一瞬固まり、それから、耳まで赤くなって前を向いた。


「……明日から、そう呼べ。命令だ」


 ヴァルデンの冬は、もう私にとって、少しも冷たくなかった。


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