第45話
墓前で「紹介したい人」と告げられた私は、そのまま何かが始まるのだと覚悟した。
のだが、閣下は墓標に深く一礼すると、「戻るぞ」と歩き出してしまった。え、と固まる私に、丘を下りながら一言。
「段取りがある、と言っただろう」
「だ、段取り……あの、閣下、今のは」
「待て。命令だ」
横暴である。心臓に悪いにも程がある。
城に帰り着くと、待ち構えていたトマに飛びつかれ、ベルタさんに「お帰りなさいませ」と目を潤ませられ、厨房には祝いの宴の湯気が立っていた。ただいま、と口にした瞬間、鼻の奥が熱くなった。ここが帰る場所なのだと、体中が知っていた。
そして翌日の夕暮れ、私は畑にいた。
二月も留守にした薬草畑は、けれど荒れてはいなかった。トマと弟子たちが守り抜いた畝には、春の新芽が整然と並んでいる。夕陽の中でその出来栄えを検分していると、砂利を踏む音がした。
振り向くと、閣下が立っていた。
執務着ではなかった。祝宴用でもない、けれど明らかに整えられた装い。そして、その顔から血の気が引いていた。北の戦鬼が、敵陣に単騎で乗り込む顔をしていた。
「……か、閣下? お加減でも」
「悪くない。……いや、悪い。心臓が、うるさい」
閣下は畑の入口で立ち止まり、深呼吸を一つして、まっすぐに歩いてきた。私の前、三歩の距離で止まる。夕陽が、灰色の瞳を金に染めていた。
「ミレイユ」
「はい」
「話がある。……ずっと、考えていた。言葉を、選んでいた。俺は口が回らん。飾った言い方は、性に合わん。だから、俺の言葉で言う」
「はい」
「お前が来てから、俺の食卓には毒がなくなった。だが、なくなったのは毒だけではない。夜の眠れなさも、朝の億劫さも、生きることの……味気なさも、お前が全部、いつの間にか消していった。俺はもう、お前のいない食卓を、思い出せない」
閣下は一度言葉を切り、それから、懐から小さな箱を取り出した。旅の間ずっと、そこにあったのだと、後で知ることになる箱を。
「毒見役の契約は、俺の代で終わる。だから――新しい契約を、申し込みたい」
箱が、開かれた。夕陽を受けて、細い金の指輪が光った。飾り気のない、けれど内側に小さく月光草が彫られた、この土地の職人の仕事だった。
「俺の残りの人生を、毒見してくれ。隣で、最初から、最後まで。……俺の妻に、なってほしい」
世界一不器用で、世界一この人らしい求婚だった。
喜びより先に、涙が出た。二年前、指輪を外したときは何も感じなかったこの指が、差し出された指輪を前に、震えている。あの日失ったと思ったものは、失われてなどいなかった。もっと確かな形で、ここまで歩いてきてくれただけだった。
「……お受けします」
声が、揺れた。揺れたまま、私は言うべきことを最後まで言った。
「お受けします。ただし、一つだけ訂正を。私がお受けするのは、毒見役の延長契約ではありません。――あなたの妻として、です。仕事ではなく、私の心で、あなたの隣に立ちます」
閣下の目が見開かれ、それから、くしゃりと歪んだ。あの晩餐の広間で彫像のようだった人が、こんな顔で笑うのだ。
「……ああ。それが、いい。それで、頼む」
指輪が、左手の薬指に嵌められた。閣下の指は震えていて、私の指も震えていて、二人がかりでようやく嵌まった指輪は、夕陽の中で、どんな宝石より温かく光った。
柵の陰で、トマとベルタさんとカイン副官が息を殺して見守っていたことを、私たちは知らないふりをした。歓声は、三秒後に上がった。




