第43話
帰りの旅は、行きよりずっと、ゆっくりだった。
閣下の「急がなくていい」の命令は徹底されていて、馬車列は一日の行程を短めに切り上げ、良い宿場があれば早々に停まった。護衛の騎士たちもカイン副官も、なぜか申し合わせたように私たちから距離を取る。夕食の席は気づけば二人きり、休憩の丘も二人きり。あまりに露骨な采配に、ベルタさんへの土産話が増える一方だった。
三日目の昼、馬車は見覚えのある川辺で停まった。
「ここ……最初にドニさんを助けた場所です。あの雪解けの斜面で、苦艾と水薄荷を摘んで」
「聞いている。本人から三度な。『わしは奇跡の薬師様の、記念すべき最初の患者だ』と、酒が入るたび自慢される」
「さ、三度も」
「四度目からは数えるのをやめた」
閣下が真顔で言うので、私は噴き出してしまった。川は春の光を映して、あの日と同じ音で流れていた。二年と少し前、行く先も分からずこの道を北へ運ばれていった私は、この川辺で初めて「薬師」と名乗ったのだ。
「不思議です。あの日の私、人生で一番の底にいたはずなのに……今思い出すと、悪くない日だったなと」
「底で摘んだ薬草が、お前の看板になった。悪いはずがない」
そういう言い方を、この人はする。慰めではなく、事実の並べ直しで人を救う言い方を。
夜は、宿の食堂で長く話した。旅の空の下だと、城では出ない話が出る。閣下の初陣の失敗談(隊列を間違えて崖に出た)、士官学校時代のカイン副官との出会い(決闘して引き分けた)、妹君が生きていた頃の、城の廊下を犬が走り回っていた話。
私も話した。神殿の狭い部屋の壁の染みに名前をつけていたこと。母の形見の髪飾りのこと。図鑑が擦り切れた理由。話しながら気づく。この二年、私はこの人に命を預けてきたのに、互いの「事件ではない話」を、ほとんど知らなかったのだ。
そして五日目の夜、国境の山並みが月に照らされる宿の露台で、閣下はぽつりと言った。
「……お前が来る前の俺は、生きるために食っていた」
手すりに置かれた大きな手が、遠い灯りを見ている。
「味のしない皿を、賭けのように飲み下すだけの十年だった。それが今は」
言葉を探す沈黙。この人の沈黙の形にも、私はすっかり慣れてしまった。
「今は、夕食の時間が、待ち遠しい」
「……はい」
「皿の向こうにお前が座って、毒はありませんと言う。それだけのことが、だ。飯が美味いという当たり前を、俺は三十を前にして、お前に教わった」
夜風が、露台を渡っていった。心臓の音がうるさくて、気の利いた返事がどこにも見つからない。ようやく出たのは、飾りのない本音だけだった。
「私も、です。毒のない水は甘いと、私はずっと知っていました。でも……誰かの食卓が無事であることが、こんなに嬉しいことだとは、ヴァルデンに来るまで知りませんでした」
「そうか」
「はい」
「……ミレイユ」
名前を呼ばれた。閣下、ではない声の温度で。振り向くと、灰色の瞳が、月明かりの中でまっすぐに私を見ていた。
「ヴァルデンに戻ったら――話がある」
「……今では、駄目なのですか」
思わずそう訊くと、閣下は珍しく狼狽え、それから咳払いをした。
「駄目だ。場所と、段取りというものがある」
「段取り」
「いいから、待て。命令だ」
耳の縁を赤くして言い捨てる背中に、私は笑いを噛み殺した。ええ、待ちます。何年でも。……できれば、あまり長くない方が嬉しいですけれど。
翌朝、馬車は国境の峠を越えた。眼下に、ヴァルデンの春が広がっていた。




