第39話
狩りの気配は、三日前から視えていた。
私たちの宿舎は、王家が用意した迎賓の館だった。厨房も井戸も私が検分済み。けれど聖女の断罪から三日、館に入る食材の流れに、小さな澱みが混ざり始めた。納入業者が一軒替わった。新しい下働きが二人入った。偶然に見せかけた、あまりに手慣れた布石。
「来ますね、近いうちに」
「だろうな。追い詰められた鼠は、最後に必ず噛みに来る」
夜の打ち合わせで、閣下は静かに言った。カイン副官が館の見取り図を広げる。
「で、どうする工房長どの。業者と下働き、今すぐ締め上げるか?」
「いいえ。泳がせます」
私は見取り図の厨房を、指で示した。
「今、末端を切っても、また別の手が来るだけです。欲しいのは実行犯ではなく、その先。毒そのもの、毒の作り手、そして依頼の証拠。ですから――餌は、私です」
「駄目だ」
閣下の即答は、予想通りだった。だから私も、準備してきた言葉を返した。
「閣下。あちらの狙いは私の口封じです。なら、毒は必ず私の食事に来ます。私は世界で一番、毒殺されにくい人間です。私の食卓ほど安全な罠は、どこにもありません」
「万一が」
「万一を潰すために、あなたがいてくださるのでしょう?」
灰色の瞳が、しばらく私を睨んだ。やがて閣下は深く息を吐き、カイン副官に向き直った。
「……館の全員に配置を。ミレイユの視界の外を、俺たちが塞ぐ」
罠を張って、四日目の夕食だった。
視えた。私の皿にだけ盛られた、澄まし汁の底の毒。それはこれまでの手口の集大成だった。三系統の素材、痕跡を消す編み方、そして検毒器具のすべてをすり抜ける新型の組成。芸術品のように禍々しい、あの筆跡の完成形。
私は何も知らない顔で匙を取り、口元まで運び――止めた。それが合図だった。給仕に扮した騎士が扉を固め、館の空気が一瞬で張り詰める。
「今です」
館が、一斉に動いた。厨房で配膳係を装っていた下働きをヴァルデンの騎士が押さえ、裏門で繋ぎ役の業者をカイン副官が捕らえ、そして閣下率いる一隊が、下働きの吐いた隠れ家――王都外れの香料工房を、その夜のうちに急襲した。
香料工房の地下で捕らえられたのは、白髪の痩せた老人だった。薬品焼けした指。棚に並ぶ、聖銀草の鉢。私は運ばれてきた押収品を検分して、確信した。この老人が、あの「筆跡」の主。十年間追い続けた、毒の職人。
そして地下の隠し床から、一冊の帳簿が出た。
几帳面な男だった。依頼をすべて、符牒めいた略記で残していた。日付、毒の種別、報酬、そして依頼主の頭文字。ケルン村の水毒。閣下を狙った蝋燭の気化毒。晩餐会の三重毒。遡って、遡って――十年前の、ある依頼。
『収穫祭の晩、ヴァルデン伯家。一家四名。特級遅効毒。依頼主、G・C。全額、宰相府経理方より』
頭文字の主が誰なのかは、老人自身の自白が埋めた。命乞いの代わりに、彼はすべてを吐いた。G・C。ギデオン・クロス。二十年来の、たった一人の顧客。
深夜の館の一室で、閣下はその帳簿を、一枚ずつ、時間をかけて読んだ。
十年前の頁で、手が止まった。父と、母と、七つの妹の命が、事務的な三行に畳まれている頁で。部屋の誰も、声を発せなかった。
やがて閣下は、帳簿を静かに閉じた。顔を上げたその目に、荒れたものは何もなかった。ただ、十年分の何かが、決壊せずに、正しい深さに収まっていた。
「……十年、待った」
低い声が、言った。
「明日、王の御前に出る。ミレイユ、隣にいてくれるか」
「はい。最初から、そのつもりです」




