第37話
「この水を、浄化していただきましょう」
大広間の視線が、一斉にソフィア様へ注がれた。
彼女は立ち上がらなかった。純白の衣の膝の上で、指先が細かく震えている。神殿長が焦れたように促した。
「ソフィア様、何を躊躇われますか。いつもの儀を、皆にお見せすれば済む話」
「……ええ。ええ、そうね」
ソフィア様はゆっくりと立ち、検証の卓へ歩み出た。そして水差しの前に立つと、こちらを――いや、広間の全員を、順ぐりに見回した。
来る。私には視えていた。翡翠の瞳の奥に、あの油膜のような光が満ちていくのが。
「皆様、どうかご覧になって。心を静めて、私の目を見て、祈りを合わせてくださいまし」
甘い声だった。蜜のように、耳から染み込む声。彼女は両手を水差しにかざし、瞳の光を広間全体へ解き放った。見せるのだ。水が輝き、澄み渡る幻を。何百人の目に、これまで何度もそうしてきたように。
――何も、起きなかった。
水差しの水は、濁ったまま。広間の誰の顔にも、恍惚は浮かばない。重臣たちは怪訝に眉を寄せ、神官たちは顔を見合わせ、国王陛下は静かに目を細めているだけだった。誰一人として、彼女の幻の中にいなかった。
「な……んで」
ソフィア様の声が、裏返った。もう一度、瞳に光が満ちる。強く、もっと強く。こめかみに汗が伝い、白い指が震える。それでも水は濁ったまま、人々の目は醒めたまま。
「なんで!? どうして効かな――」
言いかけて、彼女は凍りついた。自分が今、何を口走りかけたか気づいたのだ。
「効かない、とは」
私は静かに歩み寄った。
「妙なことをおっしゃいますね、ソフィア様。浄化の力が、水ではなく『人』に効く必要が、どこにあるのでしょう」
「ち、違……今のは」
「種明かしをします。陛下、皆様。本日ご入場の際、お配りした香り袋を覚えておいでですか。疫病除けの薬香としてお持ちいただいた、あれです」
広間のあちこちで、人々が胸元や袖の小袋に触れた。
「あれは、私が調合した護りの香です。人の心を蕩かし、目を曇らせ、偽りを真と思い込ませる――『魅了』の術への、対抗薬。この広間にいる全員が、今、その護りの中にいます」
ざわめきが、波になった。
「二年前の出立の朝、私はこの方の瞳に異様な光を視ました。そして王都の療養所で、神殿の下働きだった患者がうわ言に言ったのです。聖女様の目を見ると、頭が蕩けて、疑いを忘れる。おかしいと言った者から順に、皆、目を見て、皆、忘れた――と」
「や、やめ……」
「輝く浄化の儀を、何百人が見た。ええ、見たでしょう。見せられたのです。この方の力は、水を清める力ではない。人の目を曇らせる力。ソフィア・メルローズ様。あなたは聖女ではありません」
私は濁ったままの水差しを手に取り、掲げた。
「そして断言します。人の目を曇らせる力で、水は清められない。病は治せない。――人は、救えません。この二年の三百の死は、その動かぬ証です」
ソフィア様は、祭壇の前に崩れ落ちた。純白の衣が床に広がる。二年前、私が指輪を外したのと同じ場所だった。
衛兵が動き、神殿長が言い訳にならない言葉を喚き、広間が怒号で沸騰する。その渦の中で、ソフィア様は突然、顔を跳ね上げた。化粧の崩れた顔で、喉が裂けるような声で、彼女は叫んだ。
「私だって……私だってよ!! 私だって、あの人に聖女にされただけよ!!」
広間が、一瞬で静まり返った。
「あの人、とは」
国王陛下の静かな問いに、ソフィア様の唇が、わなわなと震えた。




