第35話
二年ぶりの王都は、匂いから違っていた。
城門を潜った瞬間に分かる、香と煎じ薬と、閉ざされた家々の澱んだ空気。大通りの人影はまばらで、市場の呼び声もない。白い城壁の美しさだけが昔のままで、その中身の憔悴を、かえって際立たせていた。
私たちの馬車列は、物々しかった。先頭に王家の先導、続いて薬と機材を積んだ荷馬車が八台、私の薬師団、そして護衛としてヴァルデンの騎士が二十騎。中央の馬車には辺境伯旗が掲げられ、私はその中にいた。隣には、当然のような顔で閣下が座っている。
「……本当に、いらしてよかったのですか。領を空けて」
「契約の履行を監督するのは、契約当事者の義務だ。それに」
閣下は窓の外に目をやったまま、こともなげに続けた。
「お前をこの街に一人で放すつもりは、最初からない」
私が返事に詰まっている間に、カイン副官が書類を差し出してきた。にやにや笑いを隠しもしない。
「はいこれ、工房長どのの王都での身分証。読み上げよっか? 『本状の携行者ミレイユは、ヴァルデン辺境伯ジークハルトの庇護下にある者にして、その身柄・名誉への一切の侵害は、辺境伯家への侵害と見なす』。……いやあ、庇護下、ねえ。こりゃ実質、婚約者の扱いだぜ」
「カイン」
閣下の一睨みで、副官は口笛に切り替えた。つまりこの紙一枚がある限り、王家も神殿も、私に手出しはできない。二年前、誰にも守られずにあの門を出た身としては、少し出来すぎた話だった。
馬車が下町に差しかかったときだった。
「……止めてください。療養所を先に見ます」
急ごしらえの療養所は、教会を転用したものだった。中に入り、患者の列を見て、私はすぐに袖をまくった。診立て、選別、弟子たちへの指示。重い患者から解毒薬を。動ける者には水の注意を。連れてきた弟子たちは、辺境の療養所で場数を踏んでいる。指示が終わる前に、もう手が動いていた。頼もしい背中たちだった。
そのうちに、療養所の隅から、掠れた声が上がった。
「……ミレイユ様? ミレイユ様じゃ、ないかね」
白髪の老婆だった。見覚えのある顔。下町の織り子で、昔、路地で倒れていたのを介抱したことがある。聖女の仕事ではない、ただの通りすがりの手当てだった。
「覚えていて、くださったのですか」
「忘れるものかね! あんたが夜中にこっそり井戸を見て回ってたのも、うちの孫の熱を診てくれたのも、みんな知ってるよ。……聖女様が代わってから、この街はおかしくなった。あたしらは知ってた。ほんとの聖女様が、誰だったか」
老婆の声に、療養所のあちこちから顔が上がった。ミレイユ様だ。戻ってきなすった。薬師様が、あの薬草図鑑の姉さんが。すすり泣きが、さざ波のように広がっていく。
記録には残らなかった五年間が、ここには残っていた。
目の奥が熱くなるのを、私は仕事の顔で押さえ込んだ。今は泣く時間も惜しい。
「皆さん、必ず治します。ですからどうか、聖水だけは口にしないで。あれは体に障ります」
夕刻、宿舎へ向かう道すがら、馬車は大聖堂の前を通った。二年前、私が捨てられた場所。明日、聖水の公開検証が行われる場所。
その正面階段に、純白の衣が立っていた。
ソフィア・メルローズ。輝くはずの新聖女は、記憶より痩せ、化粧の下の顔色は悪かった。純白の衣だけが場違いに真新しい。彼女は馬車の紋章を認め、私の顔を認め、そして――口元だけで、笑った。
「……おかえりなさい、先輩?」
その笑顔は、誰の目にも明らかなほど、引き攣っていた。




