第30話
王家の先触れが辺境伯城に届いたのは、街道の雪が消えきった朝だった。
カイン副官が執務室に駆け込んできたとき、私はちょうど朝の毒見を終えたところだった。
「来たぞ。王家の正式な使節団。目的は『流行り病に関する救援の要請』……で、だ。問題は使節の筆頭でな」
差し出された書状の署名を見て、ベルタさんが息を呑み、閣下の眉間に谷が刻まれた。
『使節団長 王子ラウル・アルディス』
二年ぶりに見る、元婚約者の名前だった。
執務室が静まり返る。皆の視線が、そっと私に集まるのが分かった。トマなど、廊下から顔半分だけ覗かせて、今にも殴り込みに行きそうな顔をしている。
私はといえば、自分の心の内を、他人事のように検分していた。動揺は――思ったより、小さい。あの名前はもう、私の急所ではないらしい。二年分の日々が、ちゃんと肉になっている証拠だった。
「ミレイユ」
閣下が静かに言った。
「会わなくてもいい。断る口実など、幾らでも作れる。病の対応で手が離せんのは事実だ。使節の相手は俺がやる。お前は顔を出さずに済む」
不器用なこの人なりの、精一杯の盾だった。ベルタさんも頷いている。カイン副官まで「王子サマには俺が塩対応しとくぜ」などと言い出す。ありがたくて、少し笑ってしまった。
「ありがとうございます。でも――会います」
「……いいのか」
「はい。だってこれは、弔問でも同窓会でもありませんもの」
私は書状を卓に置き、皆を見回した。
「王家は、三百人が死ぬ病を前に、私に頭を下げに来る。つまりこれは交渉です。取引をしに来るのでしょうから、こちらも、取引の席を整えてお迎えしないと」
カイン副官が、ひゅう、と口笛を吹いた。
「席を整える、ね。具体的には?」
「まず、私は個人としてはお会いしません。ヴァルデン辺境伯領の薬師として、閣下の同席のもとでお会いします。王家対ミレイユではなく、王家対辺境伯領の構図にします。あの方々は個人相手だと平気で約束を反故にしますが、領が相手ならそうはいきません」
「ほう」
「次に、こちらの手札は先に見せません。病の原因も、追放の真相の調べも、宰相の件も。あちらが何をどこまで知っていて、何を隠して頭を下げに来るのか――それを見てから、出す札を決めます」
「……おっかねえ。うちの工房長、いつの間に軍師になったんだ」
「教育係が皆さん厳しいもので」
閣下が、喉の奥で低く笑った。それから真顔に戻り、言った。
「分かった。席は整えてやる。当日は俺の右に座れ。この領で客と相対するとき、そこは領の重臣の席だ」
「……身に余ります」
「事実を言ったまでだ」
準備は三日で整った。会談の間には長卓が据えられ、上座に閣下、その右に私、左にカイン副官。壁際にはベルタさんが給仕として控える手筈になった。茶器は私が検分済みのものを、茶葉は私が選んだものを使う。この席で口に入るものの安全は、私が保証する。それがこの領の流儀だと、王都の方々にも知っていただこう。
前日の夜、私は工房の二階で一人、静かに茶を淹れた。
窓の下では、療養所に灯りがともっている。王都から逃れてきた人たちは、日ごとに快復に向かっていた。あの人たちを救う薬は、もうこの手の中にある。王都の三百人の後にも続く人たちを救えるのも、おそらく私だけだ。だからこの交渉は、意地や復讐のためではなく、救うために、正しく勝たなければならない。
二年前、あの聖堂で値切られた娘は、もういない。ここにいるのは、村を一つ救い、隣国の王女を治し、この領の食卓を守ってきた薬師だ。私の値段は、もう私が知っている。
湯気の向こうで、私は小さく呟いた。
「さあ――あなた方が捨てたものの値段を、教えて差し上げましょう」




