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私を棄てた国が、頭を下げに来るまで  作者: 小林翼


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第29話

 北へ発った密使が戻ったのは、雪解けの頃だった。


 王城の奥、人払いされた書斎で、国王エルネストは密使の復命を聞いた。聞き終えたとき、老王は長いこと、口を開けなかった。


「……相違、ないのだな」


「ございません。辺境の『奇跡の薬師』の名はミレイユ。オルレア伯爵家の出。年齢、経歴、すべて一致いたします。現地では隠してすらおりません。ただ王都の誰も、確かめに行かなかっただけのこと」


 密使は淡々と、調べの仔細を並べた。鉱毒に冒された村を一つ、丸ごと救ったこと。レンドル王家が国賓級の恩人として遇していること。辺境伯領の医療がこの二年で別物のように変わったこと。そして――王都に溢れるあの病と寸分違わぬ症状の患者を、彼女が今まさに、北の地で治し続けていること。


「王都で三百人を殺している病を、あの娘は、治せるのか」


「治しております。現在進行形で」


 エルネストは目を閉じた。閉じた瞼の裏に、二年前の聖誕祭が浮かぶ。千の蝋燭。息子の声。静かに指輪を外した、地味な娘の背中。あのとき玉座の隣で、自分は何をしていた? 眉をひそめ、しかし祝賀の空気を壊すまいと、黙っていた。王として、父として、二重に黙っていた。


「陛下。恐れながら、もう一つ」


 密使は声を落とした。


「例の老神官の証言の裏が取れました。測定記録の改竄、訂正への副署。それから、新聖女を推挙した男爵家の後ろ盾。すべての線が――宰相府に、集まります」


 書斎の燭台が、音もなく揺れた。


 ギデオン・クロス。二十年、王国の柱と呼ばれた男。先王の代から玉座を支え、エルネスト自身、政の半分を預けてきた男。その男の影が、聖女の追放にも、そしておそらくはこの国を蝕む何かにも、落ちている。


「……余の治世、最大の失策は」


 老王は呻くように言った。


「あの婚約破棄を、止めなかったことだ。いや、違う。あの娘の五年間を、一度も自分の目で見ようとしなかったことだ」


 翌日、エルネストは限られた重臣だけを集め、密かに評定を開いた。宰相は病を理由に外した。議題はただ一つ。北の薬師に、王家として正式に救援を要請する。


「しかし陛下、先方が承知しましょうか。経緯が経緯にございます」


「頭を下げる。それだけの話だ」


「では、使者はいかがなさいます。事が事ゆえ、生半可な格では」


 評定の間に、沈黙が落ちた。そのときだった。


「――僕が行きます」


 声の主に、全員が振り返った。末席のラウルが、立ち上がっていた。会議で言葉を失い続けたこの数月で、頬のこけた王子は、それでもまっすぐに父王を見ていた。


「この件の発端は、僕の婚約破棄です。僕が頭を下げるのが、筋というものでしょう」


「ラウルよ。お前が行けば、向こうは古傷を抉られる。分かっているのか」


「分かっています。それでも、僕が」


 言いながら、ラウル自身、自分の胸の内を測りかねていた。責任感。それは嘘ではない。だが胸の底には、別のものも澱んでいた。確かめたい、という思い。捨てた娘が本当に「奇跡」なのか。自分の目は、あの日、本当に間違えたのか。そして、もし間違えていたのなら――やり直しは、きくのか。


 その澱の正体を、彼はまだ、直視できていなかった。


 エルネストは息子を長く見つめ、やがて重く頷いた。


「……行け。ただし忘れるな。お前は謝罪と懇願に行くのだ。王子としてではなく、この国の恥を背負う者として、な」


 七日後、王家の紋を掲げた使節団が、北へ発った。街道を進む馬車の窓から、ラウルは荒れた畑と、戸を閉ざした村々を見た。王都から離れるほど、それでも人々の暮らしには落ち着きが戻っていく。北へ、北へ行くほどに。その意味を考え始めると、胸の奥が鈍く痛んだ。


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