第28話
春先のガルドに、南から人の波が届き始めた。
王都から逃れてきた人々だった。病を恐れて縁者を頼る者、家族の病人を荷馬車に乗せ、噂の「奇跡の薬師」に望みを繋いで山道を越えてきた者。工房の前には、朝から列ができた。
「工房長、南棟だけじゃ足りません! 閣下が城の旧兵舎を療養所に開けてくださるそうです!」
「助かる! トマ、重い患者から兵舎へ。歩ける方は工房で!」
私は運び込まれる患者を、片端から診た。高熱。節々の痛み。指先の灰色の変色。
視るまでもなく、既視感が答えを叫んでいた。ケルン村と同じ。鉱毒系の慢性中毒。ただし村のものより組成が古く、深く、そして――人の手の「筆跡」がない。
「……盛られたのでは、ない?」
患者の一人、下町の産婆だという老婆の枕元で、私は聞き取りを重ねた。何を食べたか。どこの水を飲んだか。老婆は熱に掠れた声で答えた。井戸の水だよ。あとは教会で配られる聖水を、ありがたく、毎日。信心深い者から倒れるなんて、神も仏もあるものかね。
聖水を、毎日。
背筋が、冷えた。私は運ばれてきた患者たちの持ち物から、聖水の小瓶を集めて視た。全部、同じだった。澄んだ見た目の奥に、あの澱の色。王都の地下水源に沈む、古い呪毒の色が。
「そんな……浄化されて、いない」
膝から力が抜けそうになった。あの澱は、放っておけば水を腐らせる。だから歴代の聖女が祓い続けてきた。私が、月に一度、夜更けの水源で祓い続けてきた。
私が去って、二年。誰も、祓っていない。
水源は腐り、その水は井戸に染み、あろうことか神殿はその水を汲んで「聖水」として祝福し、配った。病の正体は、祝福の顔をした毒だった。信心深い者から倒れたのは当然だ。一番熱心に、毒を飲んだのだから。
「工房長! こっちの患者さんが、妙なことを」
トマに呼ばれて診た患者は、神殿の下働きだったという若い男だった。熱に浮かされながら、男はうわ言のように繰り返していた。
「聖女様の目……あの目を見ちゃなんねえ……見ると、頭ん中がとろけて、心配ごとを忘れちまう……水番のじいさんも、会計の神官様も、みんな目を見て、みんな忘れた……おかしいって言った奴から、順番に、みんな……」
目を見ると、忘れる。
出立の朝の、あのぬるりとした光が、記憶の底で像を結んだ。魅了。人の心を蕩かし、疑いに蓋をする魔眼。ソフィア・メルローズの「聖女の力」の正体。光の儀式も、彼女を庇う人々の不自然な熱も、全部あの目の仕業だとすれば、筋が通ってしまう。
その夜、私は療養所の見回りを終えて、一人で星の下に立っていた。気配もなく、隣に閣下が並んだ。
「顔に書いてあるぞ。抱え込んでいる、と」
「……閣下。私は、あの朝、視たんです。ソフィア様の目の、異様な光を。危険なものだと、私の目は告げていました。でも私は、もう関わりのないことだと目を逸らして、国を出た」
「お前を捨てた国だ。義理はない」
「ええ。ええ、そうなんです。それでも」
夜空の南、王都の方角を見た。あの空の下で、三百人が死んだ。私が黙って手放した水で。
「水源のことを、誰かに引き継ぐことはできた。あの目のことを、警告することもできた。しませんでした。あの時の私にその力が残っていなかったことも、本当です。でも――私が黙って去ったことにも、責任の欠片は、あるんです」
閣下は否定しなかった。安い慰めを言わない人だ。ただ、静かに問うた。
「で、どうする」
私は南の空から目を戻し、まっすぐに閣下を見上げた。答えは、もう決まっていた。




