第3話
出立の朝は、冬晴れだった。
王都の北門前、乗合馬車の停留所には粉雪の名残が薄く積もっていた。見送りは、当然のように誰もいない。それでいいと思っていたのに、背後から鈴を転がすような声がした。
「まあ、先輩。本当に行ってしまわれるのね」
振り返ると、白貂の外套をまとったソフィア・メルローズが立っていた。侍女を二人従え、婚約者の証である青い石の指輪を――あの夜まで私の指にあったそれを――これ見よがしに陽へかざしながら。
「ソフィア様。わざわざお見送りを?」
「ええ。だって先輩には感謝しているんですもの。あなたが不甲斐ないおかげで、私、聖女になれたんですから」
侍女たちがくすくすと笑う。私は怒りよりも先に、奇妙な感心を覚えていた。この方は、取り繕うことをやめたのだ。勝敗が決したと確信している者の顔だった。
「ごめんなさいね、先輩。でも、実力の世界ですから」
「ええ、本当に」
私が静かに頷くと、ソフィア様は一瞬つまらなそうに唇を尖らせた。それから、ふと思い出したように顔を近づけてくる。
「ねえ、先輩。最後に一つだけ教えてくださらない? 王都の水源の『浄化の儀』って、あれ、何をすればいいのかしら。引き継ぎの書類が、どこにも見当たらないの」
「……儀式の作法は、神殿長がご存じのはずですわ」
「作法じゃなくて。ほら、その、コツというか」
私は目の前の新しい聖女をまじまじと見た。そのとき、ソフィア様の翡翠色の瞳の奥で、何かがちらりと光った。蝋燭の炎とも違う、油膜のような、ぬるりとした光。
――今のは、何?
私の目は毒を見る目だ。そしてその目が、彼女の瞳の光を「危険なもの」と告げていた。けれど正体を確かめる間もなく、光は消え、ソフィア様はいつもの愛らしい微笑みに戻っていた。
「まあ、いいわ。私の力なら、きっと何でもできるもの。それじゃあ先輩、お達者で。辺境は寒いそうですから、お身体に気をつけて」
知っていたのか、私の行き先を。小さく礼をして、私は馬車に乗り込んだ。窓の外で、白貂の外套が翻って遠ざかっていく。
あの瞳の光のことは、忘れよう。もう私には関わりのないことだ。
馬車が動き出す。王都の白い城壁が、ゆっくりと後ろへ流れていった。振り返らない、と決めていたのに、鐘の音が聞こえて、結局最後に一度だけ振り返った。五年間を捧げた都は、朝日の中で美しく、そして白々しく輝いていた。
同じ頃、王城の謁見の間では、ラウルとソフィアの婚約が正式に布告されていた。
居並ぶ貴族たちは輝ける新聖女を褒めそやし、祝いの言葉が花のように飛び交った。ラウルは誇らしげに胸を張る。自分は正しい選択をした。偽物を捨て、本物を選んだのだと。
ただ一人、玉座の国王エルネストだけが、祝賀の輪の中で押し黙っていた。
「陛下、いかがなさいました」
「……いや」
国王は言葉を濁した。オルレアの娘が務めていた五年間、王家の食卓で体調を崩した者は一人もいなかった。先代聖女の時代には、年に一人二人は原因不明の腹痛が出たものだったのに。ただの偶然だと言われれば、そうかもしれぬ。数字にも記録にも、何も残ってはいないのだから。
それでも、喉の奥に刺さった小骨のような不安は、祝いの美酒でも流れてはくれなかった。
北へ向かう街道を、乗合馬車は軽やかに走っていく。
乗客は私を入れて六人。誰も私が昨日まで聖女だったとは知らない。その匿名さが、ひどく心地よかった。
行き先は、王都の人間が「流刑地」と呼んで嗤う土地。北の国境、ヴァルデン辺境伯領だった。




