第26話
冬の初めから、情報は少しずつ、しかし確実に集まり始めた。
カイン副官が王都に忍ばせた耳。ドニ商会の交易網に乗って届く商人たちの噂話。そしてレンドルのセヴェリ卿からの、思いがけない申し出――「恩人の敵は、我が国にとっても座視できぬ相手ゆえ」と、隣国の諜報網までもが静かに力を貸してくれた。
真冬のある夜、カイン副官が一束の写しを携えて、工房の二階に上がってきた。いつもの軽薄な顔が、今夜はなかった。
「ミレイユ殿。……先に言っておく。気分のいい報告じゃない」
「構いません。どうぞ」
「あんたの、聖女の測定記録だ。神殿の書庫の原本を、金で寝返った書記官が写してきた」
卓に並べられた写しを、私は一枚ずつ読んだ。
聖女となった年の、私の最初の測定。水晶盤の記録には、こうあった。『浄化反応、観測されず。ただし盤上の検毒試料に、原因不明の完全無毒化を確認。要精査』。
要精査。その三文字の上に、赤い訂正線が引かれていた。訂正後の文言はこうだ。『検毒試料の変化は器具の不良と断定。被験者の能力は浄化量最低値として記録する』。
訂正の署名欄には、神殿長の名。そしてその隣、副署の欄に――宰相府の印璽が、押されていた。
「……気づいた人が、いたのですね。五年前に」
声が、思ったより平坦に出た。
「ああ。現場の神官は、あんたの力が『測定不能の何か』だと正しく書いた。それを上が握り潰した。しかもご丁寧に、宰相府の副署付きでな。聖女の測定記録に宰相府が口を出した例は、過去に一件もない。あんたの記録だけだ」
「理由も、見当がつきます」
私は写しを卓に置いた。指先は、震えていなかった。
「毒を完全に無毒化する力。それは裏を返せば、あらゆる毒を見抜き、出所まで辿れる力です。毒を政治の道具にしてきた人間にとって、これほど邪魔な目はない。だから数字を殺して、『力の弱い聖女』の枠に閉じ込めた。王家の傍に置いて、飼い殺しにして、様子を見た」
「そして手に負えなくなる前に、婚約破棄に乗じて放り出した――いや」
カイン副官は言いにくそうに、最後の一枚を差し出した。ソフィア・メルローズが神殿に「発見」された経緯の調べだった。彼女を見出して神殿に推挙したのは、宰相家の息のかかった男爵家。時期は、私の記録が握り潰されて二年ほどのち――宰相府が『替えの駒』を探し始めた頃と、綺麗に重なっていた。
「乗じた、んじゃない。婚約破棄そのものが、仕込みの仕上げだったのさ。輝いて見える偽物を隣に置けば、光らない本物は勝手に色褪せて見える。あとは若い王子の目が、勝手に仕事をしてくれる」
五年。私の孤独も、あの聖堂の恥辱も、全部、盤面の上の手筋だった。私が浄化の光を出せずに俯いた日も、殿下の目が日ごとに冷えていった日々も、誰かの帳面の上では、予定通りに進む工程の一つでしかなかったのだ。
沈黙の中、いつの間に来ていたのか、戸口に閣下が立っていた。歩み寄り、卓の写しを一瞥して、それから私を見た。
「……怒っていい」
静かな声だった。
「お前はいつも、飲み込む。飲み込んで、仕事に変える。だが今夜くらいは、怒っていい」
私は自分の胸の内を、検分するように覗いてみた。あった。ちゃんと、あった。腹の底で、静かに煮えているもの。
「怒っています。……ええ、閣下。私、生まれて初めてというくらい、怒っています」
顔を上げる。声は、震えなかった。
「ただ、怒り方は選びます。叫んでも、あの人たちの帳簿は痛まない。だから私は――全部、証拠と請求書に変えます」
同じ夜、王都。貴族街の外れの屋敷で、また一人、灰色の指先をした病人が息を引き取った。
この冬、王都の死者は、三百を超えた。




