第24話
《変毒》を、自分以外の人の体に直接使ったことは、一度もなかった。
水や食べ物の中の毒を編み直すのとは訳が違う。生きた体の中では、血が巡り、熱が生まれ、毒は刻一刻と姿を変える。読み違えれば、毒を消すつもりで血を毒に変えかねない。だから禁じ手にしてきた。今夜までは。
掌の下に、閣下の体の内側が視えてくる。肺に薄く張りついた毒の膜。血に溶け出した細い糸。心臓へ向かう、その一本一本を――私は、たどる。
「……見つけた」
毒の糸の端を、力で摘む。組成をほどく。編み直す。毒から、ただの息へ。一本。また一本。焦るな。速く、でも正確に。心臓に近い糸から。呼吸が浅い、急げ、でも焦るな。
途中から、時間の感覚が消えた。
視界の隅で蝋燭が(毒のない、検分済みのものだ)何度か替えられた気がする。ベルタさんが私の額の汗を拭ってくれた気がする。カイン副官が「無茶だ、一度休め」と言い、私が首だけ振った気もする。世界は掌の下の糸だけになり、私はひたすら、ほどいて、編み直し続けた。
最後の一本が、ただの息に変わったとき。
窓の外は、いつの間にか白み始めていた。丸々、一晩。掌はとうに感覚がなく、目の奥は焼けた鉄を当てられたようだった。それでも視ることを、一瞬も止めなかった。
閣下の呼吸が、ふ、と深くなった。浅く速かった胸の上下が、眠りのそれに変わる。唇に色が戻る。鼓動が、掌の下で、確かな強さを取り戻していく。
「……終わり、ました。毒は、もう」
言い切る前に、体が横に傾いだ。ベルタさんが抱き止めてくれて、私はそのまま、閣下の寝台の脇の椅子に沈んだ。立てない。指一本、動かない。でも、いい。この鼓動の音が聞こえる場所なら、どこでもよかった。
医師が「峠は越えました」と告げ、部屋の皆が息を吐いた。カイン副官が何か軽口を言いかけて、やめて、私の肩に毛布を掛けてくれた。
閣下が目を覚ましたのは、夜明けだった。
窓の外が薄青く明るみ、鳥が鳴き始めた頃。寝台の上で、灰色の瞳がゆっくりと開いた。
「……ここ、は」
「お部屋です。蝋燭に気化毒が仕込まれていました。もう体内に毒は残っていません。丸一日は絶対安静です」
職務報告の口調は、我ながら上出来だったと思う。声が、最後だけ震えたことを除けば。
閣下はしばらく天井を見て、状況を組み立てているようだった。それから首だけこちらに向け、私を見て――ふ、と眉を寄せた。
「……泣いて、いるのか」
「泣いてません」
即答した。事実、泣いているつもりはなかった。ただ、頬に何かが伝った自覚だけが、一拍遅れてやってきた。ずるい。安心というのは、涙の許可を取ってくれない。
「そうか」
閣下は静かに言った。
「なら、俺の見間違いだ」
そして、寝ていろと言ったのに、その腕がゆっくり持ち上がった。大きな手のひらが伸びてきて、壊れ物に触れるみたいに、私の頬を拭った。
指先は、まだ少し冷たかった。それが今は生きている人の温度で、私はもう、涙を止める努力を放棄した。見間違いだと言ってくれたのだから、いくら零れても記録には残らない。
「……無茶を、したな。顔色で分かる」
「お互い様です」
「口の減らん毒見役だ」
掠れた声が、笑いの形をしていた。手のひらはまだ、頬にあった。名前を付けていない何かが、その手のひらと私の頬の間に、確かに存在していた。今は、それでいい。
閣下が再び眠りに落ちたのを見届けて、私は窓の外の朝焼けに誓った。
この毒の出所、根まで辿る。あの人の眠りから、二度と毒の匂いがしないように。




