第23話
その暗殺は、私の完敗から始まった。
秋も深まったその日、城は穏やかだった。朝晩の毒見は平常通り。工房も盛況。夕食の席で閣下は、レンドルとの新しい交易の話を珍しく長めに語り、私は明日の往診の段取りを考えていた。ベルタさんが新しい茶葉を淹れ、廊下ではトマが弟子仲間と乾燥薬草を運ぶ声がしていた。何も欠けていない、ありふれた一日。あとから思えば、それが罠の一部だった。敵は、私たちの平穏に慣れた呼吸まで計算に入れていたのだ。
異変に気づいたのは、深夜だった。
薬草庫の帳簿付けを終えて自室へ戻る途中、執務室の扉の下から灯りが漏れていた。またあの人は夜更かしを、と呆れて――足が、止まった。
匂い。
いや、匂いと呼べるほどのものでもない。廊下の空気にほんの一筋混ざった、甘いような、埃のような、何か。普通の鼻なら気にも留めない。けれど私の勘が、全身で警鐘を鳴らした。この甘さを、私は知らない。知らない甘さは、この城では敵だ。
「閣下!」
扉を開けた瞬間、視えた。
執務室の空気そのものが、薄く濁っている。燭台の蝋燭。あの炎から、目に見えない毒が糸のように立ち上り、部屋中に満ちていた。蝋に練り込まれた、熱で目覚める気化毒。
そして机に、閣下が突っ伏していた。
「閣下! ジークハルト様!!」
息を止めて駆け寄り、窓という窓を叩き開け、蝋燭を全部薪壺に叩き込んで蓋をした。閣下の体を床に下ろす。息は、ある。浅い。速い。唇の色が悪い。瞳孔――開き気味。肺だ。毒が呼吸に乗って、肺から血へ回り始めている。
「誰か! 誰か来て! ベルタさん、カイン様!!」
城が跳ね起きた。駆けつけたカイン副官が医師を呼びに走り、ベルタさんが湯と私の薬箱を運び込む。私は閣下の呼気を視て、血の巡りを視て、毒の正体を追った。
巧い。認めたくないほど、巧い。
食事は検める。水も検める。だから口を狙わず、呼吸を狙った。蝋燭は昼間の納品検分では冷えていて、毒は蝋の奥で眠っていた。火を灯して初めて目覚める設計。私の検毒の網を研究し尽くした、私を殺すためではなく、私を「無効化」するための毒。
「ミレイユ殿、解毒は」
「既存の解毒剤は効きません。組成が新型です。ですが――視えています。設計は例の筆跡。ならば解き方も、必ずあります」
医師と手分けして処置を進める。吸わせる薬草の蒸気、血の巡りを支える煎じ薬。けれど毒の回りの方が、半歩ずつ速い。閣下の呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
「閣下、聞こえますか。ジークハルト様」
応えはない。いつも私の名を呼ぶ、あの低い声がない。
脳裏に、この城で重ねた日々が濁流のように流れた。「死ぬな」と言った声。焦げた粥。火の番の背中。畑の柵越しの「育ちはどうだ」。夕陽の中の、ささやかな微笑み。
この人を失う。その想像が、心臓を素手で掴まれたように痛かった。
ああ――もう、ごまかせない。認める。認めるから。
「駄目……駄目です、逝かせない」
私は閣下の胸に手を置いた。指先の下で、鼓動が弱い。
「あなたはまだ、私の――」
言葉の続きは、自分でも分からなかった。雇い主? 恩人? 違う。もっと、ずっと。名前を付けたら戻れなくなるもの。
でも、今はそれでいい。名前は後だ。
私には、まだ切っていない最後の札がある。人の体に使ったことのない、私自身も何が起きるか知らない札が。
「ベルタさん、カイン様。ここからは私の領分です。何が起きても、手を出さないでください」
私は息を整え、閣下の胸の上で、両の掌を重ねた。




