第20話
王都の冬は、その年、妙に長かった。
大神殿の奥、聖女の私室で、ソフィア・メルローズは鏡台の前に座っていた。鏡の中の顔は、相変わらず愛らしい。けれどその目の下には、白粉でも隠しきれない隈が滲み始めていた。
「また、失敗ですって?」
侍女の報告に、ソフィアは櫛を投げつけた。
先週、東の教区に配った聖水で、病人が快癒するどころか三人も悪化した。先月の豊穣の儀では、祝福したはずの種籾に黴が出た。貴族街の産室に呼ばれた加護の祈りでは、何も起きなかった――何も。
「聖水の質が悪いのよ。神官たちの管理がなってないの。私のせいじゃないわ」
そう、私のせいじゃない。ソフィアは鏡に向かって唱えた。だって私は最初から、浄化なんてできたことがないんだから。
私の力は、これ一つ。
鏡の中で、翡翠色の瞳の奥に、ぬるりとした光が揺れた。人の目を曇らせ、心を蕩けさせる魅了の魔眼。孤児同然だった自分をどん底から拾い上げ、聖女の座まで運んでくれた、たった一つの財産。
儀式の光も、聖水の輝きも、全部この目が見せてきた幻。本物の浄化なんて、一度もしたことがない。それでも今までは困らなかった。だって前の聖女の残した水は綺麗で、病人は勝手に治って、みんなが勝手に「聖女様のおかげ」と言ってくれたから。
なのに、この頃はどうだ。水は治らない。病人も治らない。幻で誤魔化せるのは人の目だけで、水の濁りも、病の熱も、幻には騙されてくれない。
「……どうして。前は上手くいってたのに」
ソフィアは知らない。「前」を支えていたのが、月に一度、夜更けの水源に一人で下りていた地味な先輩の背中だったことを。
批判の声には、魔眼で蓋をした。聖水に疑義を唱えた司教は、翌日には熱心な擁護者に変わった。会計の不審を口にした神官は、自分が何を言いかけたか忘れた。目を見て、微笑めば済む。簡単なこと。
でも、蓋をするたび、水面下の濁りは確実に増えていく。魅了は忘れさせるだけで、消してはくれない。同じ相手に何度も重ねれば、目つきが虚ろになり、周囲が訝しみ始める。最近は蓋をする相手の数が増えすぎて、誰にいつ何を忘れさせたのか、ソフィア自身が覚えきれなくなっていた。
同じ頃、王城の一室では、ラウルが決裁の書類を前に苛立っていた。
東教区の疫病報告、聖水への苦情、神殿への下賜金の増額要求。婚約者の輝かしいはずの功績の裏で、なぜか陳情ばかりが積み上がる。
「殿下、僭越ながら……聖女様の儀式について、一度きちんと検分をなさっては」
古参の側近の進言に、ラウルは眉をひそめた。検分。そうだ、本当は自分もどこかで妙だと感じている。ソフィアの光は美しいのに、結果だけがいつもついてこない。あの地味なミレイユの頃には、こんな陳情の山は――。
思考がそこまで進んだとき、扉が開いた。
「ラウル様あ。会いたかった」
ソフィアが駆け寄り、上目遣いに彼を見つめる。翡翠の瞳が、揺れる。
「お仕事、大変なのね。でも私、頑張ってるわ。信じてくださるでしょう?」
「……ああ。ああ、もちろんだ。君の力は本物だ。検分など、必要ない」
側近が何か言いかけて、やはりソフィアの瞳を見て、口を閉じた。部屋に、蕩けたような沈黙が満ちる。
その頃、王都の下町では。
貧民街の井戸端で、一人の荷運び人夫が高熱を出して倒れた。医者は流感と診立てた。三日後、同じ長屋で二人目が倒れた。熱と、体の節々の痛みと、そして――指先にうっすら浮かぶ、灰色がかった変色。
誰もまだ、それが何かを知らない。
ミレイユが王都を去って、ちょうど一年目の、冬のことだった。




