第19話
ケルン村から戻って、城の暮らしに小さな変化が二つあった。
一つ目は、薬草畑だ。解毒薬の材料を安定して確保したいという私の願いに、閣下は城壁の内、南の一角をぽんと割り当ててくれた。日当たり良好、水はけ良好。畝を起こし、種を蒔き、苗を移す。土を触っていると、王都で数字にされ続けた五年間が、ゆっくりほどけていく気がした。
二つ目は、弟子だった。
「ミレイユ! この葉っぱ、裏に毛が生えてるのと生えてないのがある!」
「いいところに気づいたわね、トマ。毛のある方が月光草。ない方は似てるだけの毒草よ」
「げっ。並べて生やすなよ、紛らわしい」
「自然はいつも紛らわしいの。だから目を育てるのよ」
ケルン村の一件を街で聞いたトマが、ある日城に乗り込んできて「俺を弟子にしろ」と言い張ったのだ。ドニさんの口添えもあり、トマは商会の使いを続けながら、週の半分を畑と薬房で過ごすことになった。物覚えは驚くほど早い。何より、毒で死にかけた本人だからこそ、薬を学ぶ目が真剣だった。
そしてもう一つ、変化と呼んでいいのか分からないことが。
「――今日も来ていらっしゃいますね、旦那様」
夕方の水やりの時間、ベルタさんが澄ました顔で言った。視線の先、畑の柵の向こうに、書類を小脇に抱えた閣下が立っている。
「畑の視察だそうです。本日で十二日連続の」
「か、畑の生育は領の備えに関わりますから」
「ええ、ええ、そうでしょうとも」
ベルタさんの目尻が、明らかに笑っていた。カイン副官に至っては、閣下の背後で両手を組んで拝む仕草までしている。あとで叱られればいいのに。
閣下は柵越しに畑を眺め、「育ちはどうだ」と聞き、私が答えると「そうか」と頷いて帰っていく。ただそれだけの、数分のやりとり。なのにその数分が、いつの間にか一日の句読点みたいになっていた。
その日は、トマが月光草の移植に初めて成功した日だった。
「できた! ミレイユ、見ろ、根っこ切れてない!」
「上手! 完璧よ、トマ」
思わず両手を上げて喜び合い、泥だらけの手で危うく抱き合いかけて、二人で噴き出した。夕陽が畑を橙に染めて、風が薬草の青い匂いを運んでいく。柵の向こうで、閣下がその様子を見ていた。
目が合うと、あの人は、ほんの少しだけ目元を緩めた。
笑ったと呼ぶにはささやかすぎる、けれど確かな、あの表情。
――その瞬間、心臓が、跳ねた。
夕陽のせいではない熱が、頬に上ってくる。私は慌てて屈み、意味もなく土を均した。何、今の。落ち着いて。あれはただの雇い主の、労いの顔で。
でも、駄目だった。焦げた粥の味を思い出す。火の番の広い背中を思い出す。「死ぬな」の声を、「よくやった」の腕を、馬上の「寒くないか」を、思い出してしまう。
ああ、と観念のため息が漏れた。
私は、あの人が好きだ。
この畑を、この城を、この場所での自分を――あの人の隣にある日々を、失いたくないと思ってしまっている。
「ミレイユ? 顔赤いぞ。熱?」
「……夕陽のせいよ」
トマに嘘をついて、私は柵の方を見ないまま水やりを続けた。胸の奥で、怖い、と小さな声がする。
当然だ。私は一度、選ばれて、捨てられた。誰かを大切に思うことの終わり方を、あの聖堂で骨身に刻まれた。もう二度と、と閉じたはずの場所が、こんなに簡単に開くなんて。
それに、相手は雇い主で、辺境伯で、私はただの毒見役だ。この想いは、口に出せば今の居場所ごと壊しかねない、扱いの難しい劇薬みたいなもの。ならば胸の奥の棚に、ラベルを貼って仕舞っておくのが正しい。……正しい、はずだ。
怖い。怖いはずなのに。
水を吸った夕方の土は、どうしようもなく、あたたかい匂いがした。




