34 予期せぬ出来事
宿にたどり着き、恒例の仮眠をとったあとで、エルゼリはシグレアに頼んで地図を見せてもらうことにした。幾つか気になっていることがあったからだ。
既に夕陽は落ちかけている。好奇心に負けがちなエルゼリだが、さすがに見知らぬ町にこれから繰り出そうなどとは考えない。そもそも人ごみは今でも苦手だ。永らく人に混じらず生きてきてしまった弊害だった。
窓の外は昼間よりも賑やかだ。完全に日が落ちた後は、酒の入った旅人達でお祭り騒ぎの様相を見せることもあると宿屋の主人が言っていた。
「夕食のお時間までですよ。その後はすぐにお休みになってください。暗いところで読み物をするのはあまり目に良くありませんし……。」
「はあい。」
先ほどと同じくシグレアが取り出した地図を受け取って、エルゼリはそれをテーブルに広げた。すぐにシグレアがマッチを擦る音がして、ランプに火がともる。揺れる炎に照らされて、紙はほのかに橙に染まった。紙の上で踊るインクがかすかに艶を帯びる。
地図はやはり、この国の全体図を描き起こしたもののようだ。紙一杯に描かれた地図の上には、様々な記号や文字が躍っている。北部は山脈に囲まれ、南部は海に面しているようだ。海に向かって伸びているのは河川。その上に橋をかけつつ、国内の四方に向かって伸びていく線は主要な街道のようだ。道沿いに点在するのは町だろう。中には旗が描かれた場所もあった。現在滞在しているパークラーから山を一つ越えた先にも旗が描かれているのを見て、エルゼリは休憩時に見た砦を思い出した。この記号は砦か、あるいはその土地を治めていた貴族家を示すものなのかもしれない。貴族が駆逐された今、あまり意味のある情報とは言えないようには思うが、王族と敵対していた勢力であるとか、逆に取り入ろうとしていた勢力であるとか、付随する情報が役に立つことはある。シグレアもおそらくそういったことを見越してこの地図を書き写したのだろう。たぶん。
しばらくそうして書き記された町の数や名称を指でたどっていたエルゼリは、やっぱり、と違和感の正体に一つ思い当たった。ファルマーナにいた時に、貸本屋の店主に借りた地図を見たことがある。それと比べても、この地図には地名や道路の記載が少ないような気がした。
「これ、町やお城が全部書き写されているわけではないのよね?」
「ええ。街道沿いの町は念のため書き写しましたが、すべてというわけではありません。書き写すのにも時間がかかりますので。」
納得できる理由だ。確かに確実に立ち寄る可能性がない場所や、目印にならない場所まで精密に書き取りをしていたら、いくら時間があっても足りないだろう。特にシグレアはファルマーナにいた間もエルゼリの護衛(という名のお守り)の任務に就いていたわけで、悠長に作業にかまけるような時間は殆どなかったはずだ。
(それにしては随分綺麗だけど。ものすごく丁寧だわ。)
そのあたりはシグレアの性格を反映したものなのかもしれない。同じように写せと言われてもエルゼリには出来なそうだ。
視線を動かす。一番北東の端に、城のマークが描かれていた。これがマレイグだということは先ほど確認した。エルゼリが向かう場所。ひときわ高く長く続く山脈の付近に、それだけがぽつんとそびえている。そしてその先に、エルゼリの視線は縫い止められた。
「……シグレア様。そういえば私、聞いたことなかったと思うんですけど。」
再北東に位置するマレイグの向こうには、さらに山脈が続いている。だがその先は完全な空白だ。なぜかそこでぶっつりと、地図が途切れている。同じように、西の山脈の向こう側も、北の山脈の向こう側もぶつりと途切れて先がない。南の海の向こうは言わずもがな。ソドムア以外の情報が不要だからこその対応とも取れる。だがエルゼリにはぽっかりと消えたその場所が、何故か気にかかった。
「……この先って、どうなってるのかしら。」
ソドムアの北の端がマレイグと呼ばれる土地であることはエルゼリも知っていた。かつて前触れもなくもたらされたゲームの記憶『フェイタル・フォーマルハウト』の知識によるものではない。この国に生きる者ならば一度は聞いたことのある有名なお伽噺の一説に、必ずこの地名が出てくるからだ。
女神が封印され雪に変わったとか、魔女の悲しみが雪を降らせるとか……理由づけは様々だが、マレイグにまつわるそういうお伽噺をこの国の者ならほぼ確実に耳にする。だから地理に詳しくないエルゼリのような人間であっても、その名前には聞き覚えがあるのだ。
「この先、ですか?」
エルゼリの疑問に、シグレアがぱちぱちと瞬きをした。そして。
「何もありませんよ。」
その回答はあまりにも不自然だった。え? と問い直した己の声を、エルゼリはどこか遠くで聞く。シグレアはまったく真面目な様子で、迷いがあるようにも見えなければ嘘を言っているようにも見えない。だからこそなお一層その回答は不自然だった。
違和感は膨らみ、困惑に変わる。シグレアを見つめたままのエルゼリの脳裏で、ぐるぐると思考が渦を巻いた。
国の果てがあったとしても、その先には他の国や土地が続いているはずだ。たった一つの国で世界が完結するはずはない。それこそ、ソドムアが世界のすべてを支配していたのであれば話は違うだろうが、そういう事実は少なくともエルゼリが知る限り存在しない。そしてそれはこの不完全な地図からさえ明らかだ。ソドムアの四方はそれぞれ、山脈と海によって守られている。その先には何かがつづいてしかるべきなのだ。それなのに?
「何もって……何も?」
「はい。私も実際に見たことはありませんが……我が国の他に、国は存在しない。そのように伝え聞いております。それが何か……?」
「いえ、なんでもないわ。」
反射的になんでもないと答えながらも、エルゼリの脳裏にはべっとりと違和感が張り付いた。普通に考えればエルゼリにだって分かる理屈だというのに、そのことに彼は違和感を抱いていない。それこそがあまりにもおかしい。
(でも私だって外がどうなってるかを知らない……。)
エルゼリは再度地図に視線を落とした。クルスによって両親の首が刎ねられたあの時、唐突に流れ込んできた知識。そして今こうしてはじめて城の外に出て、自ら知っていく事実。シグレアの言葉。どれを重ねても今のこの世界の姿が、エルゼリには見えない。
新たな地図が作られなくなって十年以上が経過しているとシグレアは言っていた。確かにエルゼリが貸本屋で借りた中にも、新しい地図はなかった。他の国の言葉で書かれた本もなかったように思う。ただでさえ高価な書物が、前王の治世下で焚書の憂き目にあった――その結果だろうと気にもしなかったが、もしかしてそこにそれ以外の、それ以上の意味があったとしたら?
(何が、どうなっているの?)
そこに向かえば何かが分かるのだろうか。国の果て――マレイグよりも先の空白地帯へ。
※ ※ ※
「エマ殿、大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫です。私のことより……エルゼリ様が心配です。あの方こそ旅に慣れてはいらっしゃらないのに……。」
「大丈夫ですよ、きっと。エルゼリアード様はどうも、その……誤解なさらないでいただきたいのですが、適応能力が高いと言いますか逞しいと言いますか……。」
「おっしゃることは分かります。そうですね、エルゼリ様はお強い方ですわ。私がその点を疑うなんて、あってはならないことですわね。」
気を遣って語り掛けてくれるラドナーに、エマは眉を下げ笑った。
先の町を二日遅れで出立したエマは、エルゼリアード一行を追いかける形でパークラーへと向かっていた。熱こそ下がりきっていないが、本復を待っていたらどれだけ時間がかかるか分かったものではない。行動に差し支えない程度にまで熱が下がり、医者から薬をたんまり預かったエマは、出発を急いだ。
シグレアが随分と配慮をしてくれたのだろう、残された騎士の中にはエマも顔見知りの、エルゼリアードの居室を預かっていた見張り二人もいた。今はそのうちの一人、騎士のラドナーが馬車に同乗している。並走する騎士の数を減らす目的だ。おかげでエマは話し相手を得ることができたわけだが。
同乗する騎士は休憩の都度変わる。休憩を兼ねているのだろう。横になって休むでもなく律義に声をかけてくれる彼らに、エマの方が恐縮しきりであった。
カラカラと車輪の回る音がする。既に日は暮れ始めており、この分では今日はどこかで野営することになるだろう。
手にした水筒の水を口に含んでから、ラドナーが言った。
「エルゼリアード様ももちろんそうですけれど……私から見ればエマ殿もすごいと思いますけどね。エルゼリアード様のために、わざわざ城にやってこられたのでしょう? そのように忠義を貫けるというのは並のことではありません。」
ラドナーが言っているのは、エルゼリアードが発見された後、エマが押しかけて来た時のことだろう。思い出すに考えなしだったなと恥ずかしく思うが、あの時はとにかくエルゼリアードが生きているということを確かめたいという気持ちだけが先に立ち、後のことなんて考えもしていなかったのだ。あれがクルスの策略で、貴族の残党狩りを目的とした罠だったとしても、エマは自ら罠に飛び込んだに違いない。
「あの時はとにかく必死で、後のことなんて何も考えていませんでした。ただの無謀というものです。……ラドナー様こそ、シグレア様とともにここまでおいでになったではありませんか。国王軍を抜けて、クルス様の許で戦われた。勇気ある行動だと思います。」
「いえ、私なぞは。」
ラドナーが恥じ入るように目を伏せた。
「シグレア様についていきたいと、そればかりでしたから。エマ殿のように自分で何かを成したわけでもありませんし。同じですよ、あえて言うなら必死だったとしか――ん。」
言ったラドナーの言葉が不自然に途切れた。ピタリと呼吸を殺し、目を細めた彼が、ちらりと窓を覆う布の隙間から外を見る。ただならぬ様子にエマも息を詰めた。響く車輪の音は変わらない。だが何かがおかしい。
(馬の足音が……増えてる?)
並走する騎士が駆る馬。そしてこの馬車を走らせている馬。速度を合わせているようだが音の数が違う。馬車のが増えている様子はない。明らかに馬だけを駆る一団が周囲を取り囲んでいる。
「何が――、」
「動かないで。」
厳しく制止され、全身が硬直した。ラドナーから緊張が伝わってくる。傍らに置いていた剣を鞘ごと掴んだ彼が、瞳を窓の外に向けたままで指示をした。
「予備のマントがそこにありますから、被って。魔法を込めてありますから、少しは防御になります。それから、窓には絶対に近付かないように。囲まれています。」
何故、誰が。巡る言葉は何一つ言葉に変わらない。からからに乾いた喉の奥で、エマは悲鳴をやり過ごす。
音はますます増えているように聞こえる。外の景色を見ることのできないエマには分からないが、どうやらかなりまずい状況であるらしいことだけは分かる。
「何か御身を守るすべはお持ちですか?」
「一般的な護身術程度は。ですが魔法の持ち合わせは……っ……!?」
思わず上がりかけた悲鳴を辛うじて呑み込む。鈍い音が立ち、馬車ががくんと揺れた。馬の嘶き、誰かの悲鳴。一瞬目の前に火花が散り、視界が涙に歪む。
踏ん張りきれずに頭をしたたかに壁に打ったのだと気が付いたのは、座席の上に己の身体が崩れ落ちた時だった。外からはいつの間に始まったのか、剣戟の音がする。
(エルゼリ様……。)
沈みそうになる意識を掴むため、ぎゅっと外套を握りしめる。窓の外では日が落ちようとしていた。
じきに夜が来る。