2 帰るための試練
俺たちはしばらくくっついていたけれど、落ち着いてきて気恥ずかしさが勝ったころ、そっと離れた。
イコは「これが……なみだ……」とか、感情を手に入れたロボットみたいなことを言いながら、頬を濡らした涙を拭う。
濡れていたのは左側だけで、ガーゼ眼帯の下には、やはり目はないらしい。
「イコ……その目、なんでそんなことになったの?」
「え? ん……んー……まえに、いろいろあった」
「そうなんだ……」
露骨に聞いてほしくなさそうだ。
まあ、イコが言いたくなった時でいいか。
「でも、イコって名前だったっけ? 聞き覚えがないんだけど……」
俺は意識して話をそらす。
でも、名前のことが気になっていたのも本当だ。犬がいたことは思い出せたけれど、昔のことだから細部までは覚えていない。
イコという名前にも、いまいちピンときていなかった。
「んと、ぼく、なまえいっぱいあったよ」
「そういえばそんなこと言ってたな」
イコに名前を聞いたのが、ずいぶん前に思える。
たしか、沢山の名前があって、よく呼ばれていたのが『イコ』だと言っていた。
「どんな名前があったの?」
「えっとね、カワイ」
「か、河合!?」
なんだ河合って。苗字みたいだ。
うちの親、そういうことするタイプには見えないんだけど。
「あとは、カシコイネとか、サンポとか、ゴハンとか……」
「……なるほど」
続いた言葉に、俺は納得する。
どうやらイコは、よくかけられていた言葉を、全部名前だと認識していたらしい。
他のラインナップを考えると、「カワイ」はおそらく「河合」ではなく、「可愛い」だろう。
となると、「イコ」は「いい子」かもしれない。もしくは「行こう」とか……その両方かもな。だから一番呼ばれた名だと思っているのかも。
俺が納得している間も、イコは目をぐるぐるさせながら、記憶を掘り返している。
「あとはあとは、ナデナデとか、ムギとか、ムーチャンとか……」
「! それだ!!」
ようやく、記憶を刺激する音が出てきた。
ムギ。ムーちゃん。
そうだ、俺の兄弟の犬は、そう呼ばれていた!
毛の色が小麦色だったからだろう。今のイコの髪と同じ色だ。
「ムーちゃんって、呼んでた覚えがある!」
幼い俺は、ムーちゃんムーちゃんと呼びながら、犬だったイコの後ろをついて回ったものだ。
「え……でも、イコともよばれたよ? あと、カワイも……」
「う、うん。それも言った。沢山言った。でもムギ以外は、名前じゃなくて褒め言葉だよ。ムギは沢山褒められていたんだよ」
そう言うと、イコは目をまんまるにする。
「そうなの? えへへ~」
辞書の『破顔』の項目に挿絵を乗せるなら、今のイコの顔がいいだろう。
それくらい、トロトロに顔をほころばせていた。
「名前、これからはどう呼ぼう? ムギがいい? イコがいい?」
「えと、イコも、ほめることば?」
「うん。『いい子』だと思う」
イコは地獄で何度か、俺に「いい子」と言ってくれた。でも今まで結びついてはいなかったらしい。犬の思い込みって可愛いな……。
「じゃあ、イコがいい。ぼく、いい子だから!」
イコは嬉しそうに言った。
今のイコに尻尾があれば、ブンブン振っていただろうな。
「イコ、絶対に一緒に帰ろう」
俺は暮れかけの夕陽の中で、改めて決意する。
もう、イコを孤独にはしない。
「うん!」
そう答えるイコの顔は、陰になって、見えなかった。
*
翌日、俺たちは太陽が昇り出すより前に起きて、登山口へと向かった。
タイムリミットは、今日の夜。山は大きくはないけれど、片手片足が動かないイコはゆっくりとしか歩けないから、急ぎたい。
ただ、イコ曰く死者はこの山に近づこうとしないらしい。
鬱蒼と木々が生えた山で、茂みから死者が飛び出してくるのを警戒しないで済むのは、ありがたかった。
「お、案内看板がある」
山はある程度整備されている。小学校6年生の頃、遠足で来た覚えがあった。
見れば、山の絵の上に、4つの地名が書かれていた。
頂上に『人形塚』。
そこをアナログ時計の12時の位置とした時、3時に『地獄谷』、6時に『針の山』、9時に『血の池』と書かれている。
「あーそうそう、こんなんだったな。小さかった頃は、結構怖かったなあ」
遠足で行ったのは、地獄谷にある展望台だ。開けた場所で、街を一望できる。
ただそこに行くために、谷にかかった吊橋を渡る必要があって、生徒からは不評だった。
俺たちが遠足に行った2年後から、この山への遠足は廃止されたと風の噂で聞いて、羨ましかったものだ。
他の場所も、話は聞いたことがある。
人形塚は、大きな石碑が建っていて、その下に人形が沢山収められているらしい。
そのためか、人形を置いていく人が多くて、石碑の回りも人形だらけだとか。インパクトがあるから、テレビが取材に来たこともある。
針の山はトゲトゲした岩が多くて、転ぶと大怪我するから近寄らないようにと言われている。
遠足の途中、立入禁止と書かれた道があって、あっちが針の山なんだろうなと、クラスメイトとヒソヒソ話した。
血の池は、赤い――赤すぎてほとんど土色の池だ。池を探していると迷って落ちると言われていて、そこも立ち入り禁止。獣道はあるらしい。
「イコが言ってたほこらって、人形塚のあたり?」
今日の夜までに、頂上のほこらに行くようイコは言っていた。
「うん。にんぎょうが、たくさんあるところのちかくに、ほこらがあるよ」
「そっか。じゃあ、行こう」
「うん」
*
山道は、思ったよりも整備されていた。
少し険しい階段などもあったけれど手すりが完備されていて、イコは杖がわりの鉄パイプを俺に預け、一人で登ることができた。
「意外とあっけなくついたな……」
頂上の人形塚についた時、太陽は頭の上にあった。昼を少し過ぎたくらいだろうか。
頂上にはベンチが備え付けられていた。
イコが座るのに手を貸していたら、俺のお腹がぐぅ~と鳴る。
「あー、さすがに腹減ってきついな」
「サンちゃん、これ!」
座ったイコが、意気揚々と何かを差し出す。
思わず受け取ると、それは親指くらいのサイズの、緑の実だった。
手のひらいっぱいにある上に、イコはジャージのポケットからどんどん追加で出してくる。
「え……これ、木の実?」
「いっぱいとったよ! たべて!」
「す、すごいな……いつの間に……」
道すがらとったんだろう。さすが、11年間も生き延びてきただけあって、頼もしい。
「ありがとう。半分もらうな」
「あ、うん」
半分をイコに返して、ベンチで隣に座る。
「いただきます」
かじると木の実はサクッとしていて、甘酸っぱかった。
空腹の体に、染み入る。
「うまい……! イコ、うまいよこれ!」
「よかったぁ!」
イコは嬉しそうにニコニコと笑う。
俺は夢中で、木の実を食べきった。
「はー、うまかった……。ありがとう、イコ。あれ、イコももう食べたのか?」
「うん」
「そっか。じゃあ……って、この後どうしたらいいんだろう。夜まで待てばいい?」
頂上に来たのはいいけれど、元の世界に帰れる扉のようなものは、見当たらない。
「えと、そこにかいてあるって」
「……看板?」
イコが指さした先は、俺からは木に隠れて死角になっていたけれど、看板が立っていた。
神社や観光地で、その場所の由来とかが書いてあるようなやつだ。
「まえは、まよいこんだひとに、やりかたをおしえてもらった。その人が、もしまた、まよいこんだら、これをよめって、いってたよ」
イコがたどたどしく説明してくれる。
話を聞くに、イコも俺も、地獄へ迷い込み慣れた人にずいぶん助けてもらったらしい。
元の世界に戻ったら、お礼を言いたいな。
「ありがたいな。えっと……」
看板を読むと、『蘇り伝説について』というタイトルで、神話が書かれていた。
なんでも、地獄に迷い込んだ人が、『3つの試練』を突破し、『3つの捧げ物』をして、蘇ったらしい。
この山の地名は、その神話になぞらえてつけられたそうだ。
「試練は3つ……怖いこと、辛いこと、迷うこと。地獄谷で怖いことを突破して、針の山で辛いことを突破して、血の池で迷うことを突破した……」
そして神話の人は、試練のたびに、体の一部を捧げていったらしい。
「捧げ物は、働くために必要なもの、人といるために必要なもの、生きるために必要なもの……?」
いまいちわからなかった。
看板を更に読む。
『蘇っても、一部を失っては、生きられませんでした。今後同じ試練を受ける人の肩代わりをするために、人形が備えられるようになったのです』
文章は、そこで終わった。
「じゃあ人形を借りて、地獄谷とかでその一部を捧げてくればいいのかな……あ、そうだ」
難しさに頭を抱えてしまったけれど、すぐそこに経験者がいることを思い出す。
「イコも、昔もこれをやったの?」
俺は人形を一体手に取り、尋ねる。
人形はポーズからして雛人形の、弓を持っている人のようだった。
「うん。3つのしれんと、3つのささげもの、したよ」
「そっか。じゃあ、やろう」
「ぼくは、ここにいる。あるけないから」
「え。でも……一緒にやらないとダメなんじゃないの?」
「だいじょうぶ」
イコは自信満々に、うなずいた。
でもそうか、これが元の世界への扉を開く儀式なら、扉さえ開けば二人でくぐればいいのか。
「じゃあ、ここにいてな」
「うん」
「がんばってね、サンちゃん。まってるね」
イコの応援を背に受けながら、俺は地獄谷の方へと歩き出した。




