第二章
# 第二章
彼は、すぐには答えを返さなかった。迷っていたからではない。今、この場で二人のあいだに何が言われたのかを、あまりにもよく分かっていたからだった。
それはもう、ただの願いではなかった。
まして、一つ頷いて、一つ身体を重ねれば済むようなものでもなかった。
アヤノが求めたのは、慰めでもなければ、証明でもない。まして、ただ抱かれることでもなかった。彼女が求めたのは、自分がもう一人ではいられなくなった、その場所に、彼がちゃんと入ってきてくれることだった。
だからこそ、彼はすぐに彼女を寝台へ連れてはいかなかった。
まず、彼はただ彼女を抱いていた。身体の奥でまだ鋭く震えているものが少しずつ抜けていくまで。リラはすぐそばにいて、彼女の肩や髪にそっと触れていた。アヤノはそれを拒まず、少しずつ、自分の呼吸ひとつでさえ傷口に触れるみたいに張りつめていた状態から、ようやく抜け出し始めていた。怒りが消えたわけではない。けれど、その怒りの中にあった、何もかも自分ごと叩き壊してしまいそうな盲目的な裂け目だけは、もう少しだけ静まっていた。
やがて彼女が顔を上げたとき、その目はもう少し違っていた。重さはまだある。言い尽くしていないものの暗さも残っている。けれど、今にも自分を引き裂きそうな切迫は、ひとまず引いていた。
「私、気が変わったわけじゃない」
彼女は低く言った。
「分かってる」
「あなたも……変わってないの?」
彼は彼女を見た。そこには慰めのための嘘も、安心させるための曖昧さもなかった。
「変わっていない」
アヤノは一瞬だけ目を閉じた。安堵したからではない。むしろ、そういう答えこそが必要だったのだ。約束ではなく。綺麗な言葉ではなく。逃げ道のない真実として。
彼は彼女の頬に触れ、そのまま首筋へ、ゆっくりと手を滑らせた。彼女の身体に、触れられるということが、ただちに差し出すことや耐えることを意味しないのだと、あらためて教え直すように。アヤノはそのたびに小さく震えた。怯えからではなく、もう持ちこたえようのない感情の密度に、身体の方がついていけなくなっていたからだった。彼女はまだ張りつめていた。何一つ解決していないような顔をしていた。けれど本当は、もう引き返すことのできる場所など残っていなかった。
「来い」
彼は言った。
今度、アヤノは飛びつかなかった。もっと寄越せとすぐに迫りもしなかった。ただ、ついていった。そしてその慎みのなさとは違う、その静かな従い方の中にこそ、彼女がどれほど深く、「自分の言葉を受け取られた」という事実に打たれていたかが見えていた。
リラは、彼がアヤノを寝台へ導いても、部屋に残った。証人としてではない。まして参加者としてでもない。もうそこにいることが「外から見ていること」ではなくなっていたからだ。アヤノもそれをすぐに感じた。けれど振り向きはしなかった。今の彼女の意識は、あまりにも鋭く、彼一人へ向けられていた。
彼はアヤノを寝台の縁に座らせ、その前に片膝をついた。
その動きは、もし彼が最初から彼女を押し倒し、ためらいなく抱いていたなら感じなかったであろう驚きを、かえって彼女にもたらした。彼女は上から彼を見下ろし、その顔に一瞬、ほとんど子供のような理解しきれなさが浮かんだ。まさか、こう来るのか、と。
彼は説明しなかった。ただ両手を彼女の膝に置き、ゆっくりとそれを開いた。力でではない。彼女自身の承認を待つように。アヤノは自分から脚を開いた。最初はぎこちなく、次にはもっと深く。その単純な動きだけで、彼女の身体にはもうはっきりとした震えが走っていた。
彼は視線を上げた。
「俺はお前を欲している」
彼は言った。
「だが、結果を約束できるふりはしない」
アヤノは動きを止めた。
その言葉は、どんな接触よりも正確に彼女の核心を打った。
それは彼女が最も聞きたくなく、同時に最も聞きたかった言葉だった。誤魔化しのない真実として。
「分かってる」
彼女は息を漏らした。
「私、馬鹿じゃない」
「知ってる」
彼は親指で、彼女の内腿をなぞった。とてもゆっくりと。感覚を避けるようにではなく、むしろ、身体の方が先に開いていく、その事実を彼女自身が逃げずに感じるための速度で。
「今夜で子が宿ると、俺は言えない」
彼は言った。
「だが、この願いから退かないことは言える。今も、この先も」
彼女の唇がかすかに震えた。
「それだけあれば、ここへ来るには十分だった」
彼女は言った。
それからようやく、彼は彼女へ口づけた。
最初の触れ方は、ほとんど重さのないものだった。怖じたからではない。変化の瞬間を、彼女の身体にきちんと認識させたかったからだ。熱い皮膚の上を這っていた手の温度から、口唇の温度へ。期待に張りつめていた緊張から、返ってくる感覚へ。アヤノは鋭く息を吸い、そしてすぐに、何かに耐えるように寝具の端を握りしめた。ただ触れ方の質が変わった、その事実だけで、彼女はもう崩れかけていた。
彼は急がなかった。
彼女の身体は、すでに限界ぎりぎりまで昂っていた。少し強く触れればそれだけで一気に壊れ、同時に、自分の欲しさに自分自身が溺れそうなところまで来ていた。だから彼は、甘やかすようには進めなかった。けれど無意味に焦らしもしなかった。ただ正確に、彼女の身体がもう嘘をつけなくなる場所へ触れていった。
アヤノは、自分で見せたくないほど強く張っていた。脚のあいだはもう熱を持ち、湿り、ほとんど痛みに似たほどに開かれていた。その無防備さこそが、彼女をいっそう裸にしていた。彼は、何も奪い取るつもりはないという静けさと、それでもなお彼女に制御へ逃げる場所を与えない意志の両方を持って、触れていた。
アヤノは、自分でも気づくより先に声を漏らした。
短く、かすれ、ほとんど自分自身への苛立ちのように。
「やめないで」
彼女は言った。
「やめるつもりはない」
彼は、意味もなく彼女を弄んだりはしなかった。戯れのために間を引き延ばしたりもしなかった。ただ、彼女の身体がずっと押し殺してきたものに、初めて確かな返事が返ってくる、その場所へ真っ直ぐに進んだ。だからこそ、アヤノは思っていたよりも早く崩れ始めた。彼女がここまで保ってきた理性も、冷たい整え方も、自分の渇きを崖の縁で支え続けるあの異様な耐え方も、全部、そこにちゃんと応えるものが現れた瞬間、ひどく脆かった。
彼女の呼吸は重くなり、膝は震え、指は寝具をきつく握りしめた。ある瞬間にはもう耐えきれず、自分から彼へ身体を押しつけるように動いてしまって、すぐに、そのあまりの露骨さに噛みつくような口調で小さく悪態をついた。
彼は一度、顔を上げて彼女を見た。
彼女の顔は赤く、涙と汗で濡れていて、そして何より、作られたものが何一つ残っていないという意味で、美しかった。
「私を見て」
彼女は言った。
彼はその通りにした。
それが、かえって彼女をいっそう追い詰めたようだった。
なぜなら彼女はいま、自分の身体だけではなく、彼が自分を丸ごと見ていることまで感じていたからだ。開いていくことも、息が続かなくなっていくことも、欲しさが観念ではなく事実になっていくことも、その全部を。
彼女が波に呑まれたのは、綺麗に頂点へ達した、というものではなかった。むしろ、内側で何かがひどく乱暴に割れたような感じだった。アヤノは鋭く声を上げ、遅すぎる動きで口元を手で覆った。全身が張りつめ、それから大きな震えに変わった。その瞬間、彼女はもう「求める側」ではなかった。ただ、自分の中に抱え続けてきた飢えを、ようやく抑えきれなくなった一人の女だった。
彼はすぐには立ち上がらなかった。
彼女に息を整える時間を与えた。最初の崩れのあとで、身体が静まるのではなく、むしろいっそう深く、いっそう貪欲に感覚を欲し始める、その時間を。
彼が立ち上がって彼女の前に立つと、アヤノはもう半ば霞んだ視線で彼を見上げていた。
「……今度は、入って」
彼女は言った。
命令ではなかった。
懇願でもなかった。
ただ、最もまっすぐな欲望の形だった。
彼は、今度はためらいなく彼女の衣服をすべて外した。乱暴ではなく。だが、無駄に慎重でもなく。アヤノも自分でそれを手伝った。動きはぎこちなく、焦れていて、ときどき自分でも苛立つほど性急で、まるで彼とのあいだにまだ残っている最後の隔たりすら耐えられないようだった。彼女が横たわったとき、その身体には従順さも挑発もなかった。ただ、もう何一つ隠せない開き方だけがあった。
彼は、喉元から胸へ、腹へ、腿へと、掌をゆっくり滑らせた。それは観察ではなかった。確認だった。そうだ、これはお前だ。そうだ、俺はいまここにいる。そうだ、今から起こることは、もう本当だ、と。
アヤノは彼を見つめたまま、目を逸らさなかった。
「あなたが平気なふりをしないで」
彼女は囁いた。
彼は、ごくわずかに笑った。
「平気じゃない」
それは、きっと彼女にとって一番必要な答えだった。
彼女が欲しかったのは彼の身体だけではない。彼が自分だけを壊れそうにさせて、自分は壊れないままその上に立っている、という形ではないこと。そのことを知る必要があった。
彼が彼女の中へ入ったのは、乱暴ではなかった。だが、怖じるようでもなかった。正確に、深く、最初からちゃんと。アヤノは鋭く息を呑み、目を閉じた。両手は自然に彼の肩へ上がっていた。拒むためではない。受け止めるために。
彼女はもう準備されていた。
それでも、その感覚は、準備という言葉が収まるよりも大きかった。
「……もっと」
彼女はほとんどすぐに言った。
「止まらないで」
彼は止まらなかった。
けれど、勢いだけに任せた粗い速さにも堕ちなかった。彼にとって大事だったのは、ただ強く押し込むことではなかった。彼女が、自分が本当に彼の欲望の内側に抱かれているのだと感じることだった。彼女の願いに応じるために使っているのでもない。彼女の口にした激しい言葉に合わせて、無理に荒く振る舞っているのでもない。同じ渇きの方へ、彼自身も本気で踏み込んでいるのだと分かることだった。
そして、それこそがアヤノを最後まで壊した。
なぜなら、ただ抱かれることと、自分が抱かれたいと望むのと同じだけ真剣に、自分を欲している相手に抱かれることとは、全く違うからだ。そしてその上で、二人とも結果については嘘をついていなかった。
二人とも、ちゃんと分かっていた。
今夜をどれだけ誠実に過ごしても、宿ることまでは命じられない。
望みが痛いほど重なっても、それだけで実りになるわけではない。
身体は、意志に対して契約書なんか書いてはくれない。
けれど、その容赦のない明晰さが、むしろこの時間を弱くするどころか、いっそう強くしていた。
アヤノは彼の背へ爪を立てるようにしがみつき、息も絶え絶えに言葉を零した。ときにはほとんど悪態のように、ときには同じ言葉を繰り返しながら。自分でも、全部を声に出していることに気づいていないようだった。欲しいのだと。中に空洞ではなく何かが欲しいのだと。もし叶うなら叶ってほしいし、叶わないのならせめて、この夜だけは嘘であってほしくないのだと。
彼はそれに、言葉ではなく、自分が彼女とどう共にいるかで応えた。
必要のないところでは甘やかさず、だが自分の力を誇示するために彼女を壊したりもしない。そのあいだの、最も誠実なところで。
ある時、アヤノは突然泣き出した。
けれど、彼を求めることをやめたわけではない。顔を隠しもしなかった。涙はこめかみを伝って枕へ落ち、呼吸は途切れ途切れになり、それでも身体は貪欲に彼へ向かっていた。それこそが彼女の、残酷なまでに簡単な真実だった。
すべてが終わったとき、彼女はもう境界の手前にはいなかった。
そのずっと向こう側にいた。
彼女は荒い息のまま、半ば眠りに落ちかけながら、空っぽになったようでいて、同時に満たされてもいた。――いや、孕んだという意味ではない。そんなことが、今すぐ分かるはずもない。ただ、自分の欲望を、もう誇りで覆い隠さなくていいところまで来てしまった、その事実によって。彼は彼女のそばに残り、背を向けなかった。アヤノはほとんどすぐに、全身で彼へ寄り添った。まるで今になってようやく、最後に残っていた形まで手放してしまってもいいのだと、自分に許したように。
「……それでも、あなた、約束はしなかった」
彼女はもう半分眠りながら呟いた。
「しなかった」
「なのに……まるで約束したみたいだった」
彼は彼女の髪に触れた。
「お前と同じくらい、俺も欲していたからだ」
それに対して、彼女はもう答えなかった。
あまりにも早く眠ってしまった。
安らかだったからではない。長すぎる内側の戦いのあとで、完全に力を使い果たした者の眠りだった。
部屋はようやく静まった。
リラが静かに近づき、アヤノの上に布をかけた。こめかみのあたりに指を留め、それから彼を見た。その視線は問いでもなく、嫉妬でもなく、もう言葉を必要としない理解そのものだった。そのあと彼女は、隣の空間へ音もなく下がっていった。ほどなくして、そこに彼女がいることさえ、ほとんど音では分からなくなった。
彼は眠ったアヤノのそばに座ったまま、もう一つの視線を感じた。
人のものではない。
もっと薄く、もっと鋭い。部屋の明かりや身体のぬくもりとは別のところに属しているようで、それでいて、もう見誤りようもないほど馴染んだ気配だった。
彼は顔を上げた。
ネリッサは、開いたままの境に立っていた。まるで、ずっとそこにいたかのように。
芝居がかった現れ方はしなかった。
空気を裂いて割り込んできたわけでもない。
ただ、そこにいた。だからこそ、余計に不穏だった。
偶然見かけた傍観者のようなものは、彼女には何一つなかった。むしろ、見届けるためではなく、確かめに来た者の気配だった。
彼は驚かなかった。
そのこと自体が、何よりも大きかった。
少し前の彼なら、違う反応をしていたはずだった。少なくとも内側では距離を置いただろう。お前はここに属していない、お前は別だ、お前は外から見ているだけだ――そうやって、彼女と自分のあいだにひとつ線を引いたはずだった。
今は、それが起きなかった。
彼は彼女を見た。
そして、もう「外側の存在」として見ることができないと、すぐに分かった。
ネリッサもそれをすぐ理解した。
彼がどれだけ長く黙ったかで。
その沈黙の中に、もう防御がなかったことで。
彼女はゆっくり近づいてきた。
何かを乱さないように、というより、自分自身がこの真実を壊したくなかったからこそのゆっくりさだった。
彼女の目は、眠るアヤノの上を一度滑り、それから彼へ戻った。
「……とうとう、ここまで来たのね」
彼女は静かに言った。
彼は口元だけで、疲れたように笑った。ほとんど皮肉もなく。
「そうらしい」
「前のあなたなら、すぐに閉じていた」
「分かってる」
しばらく二人は黙っていた。
窓の外は暗く、部屋の中には、眠るアヤノの深い呼吸と、寝返りのたびに布がかすかに鳴る音しかなかった。彼女は眠りの中でも、彼の身体へもっと強く寄ってきていた。
ネリッサはその様子を長く見た。
それから訊いた。
「今、本当は何を感じているの?」
彼はすぐには答えなかった。
答えたくなかったからではない。
久しぶりに、その答えが最初から用意されてはいなかったからだ。
「……もう、自分のものと、そうでないものを、前みたいに分けて見られなくなっている」
彼はようやく言った。
「彼女はもう、俺の生の外側にはいない。……誰一人として」
ネリッサは、わずかに視線を落とした。
それは、もし彼が彼女のことを名指しで言ったなら感じなかっただろう種類の衝撃を、彼女に与えていた。
「私も?」
彼女は訊いた。
彼は彼女を見た。
今の彼女の顔には、あのいつもの、どこか底の見えないような微かな笑みも、隔てを保つための静かな確かさもなかった。ただ、ひどく開かれた真剣さだけがあった。ほとんど人間じみた脆さを帯びて。
「お前もだ」
彼は言った。
彼女は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
再び目を開いたとき、そこにはもう、彼女が長く隠していた慎重な空白は残っていなかった。
「私は、あなたにとって外側のままではいたくない」
彼女は言った。
彼は答えなかった。
その答え自体、すでに不要なほど、それは真実だったからだ。
ネリッサは、もう一歩だけ近づいた。
二人のあいだには、ほとんど空気しか残らなかった。
「これが、ずっと私だけの知識でなくなるのを、どれだけ待ったか、あなたには分からない」
彼女はほとんど囁くように言った。
「あなた自身がようやく、自分で辿り着いてくれるのを。私を、ただ別個のもの、たまたま外から来た何かとして、もう呼べなくなるところまで」
彼は黙って彼女を見ていた。
「私はもう、あなたの生を敷居の外から見ていたくない」
彼女は言った。
「見ているだけで足りないからじゃない。……もう、証人でいるだけでは足りなくなったの」
その言葉を聞いたとき、彼はようやく、本当にどれほど遠くまで来てしまったのかを感じた。
彼女が何を言ったか、ではない。
それが、少しも不可能に聞こえなかったことが。
「お前自身が、その境界を長く保っていた」
彼は言った。
ネリッサは、静かに笑った。
「当然でしょう。誰かが保たなければならなかった。あの頃のあなたは、秩序に収まらないものを全部、ただ遠ざけることしかできなかった。もし私がもっと早く近づいていたら、あなたは私を、自分の防御の一部に作り変えていた。どうして私は近くにいてはいけないのか、都合のいい説明をひとつ整えて、それで終わらせていたはず」
「今は?」
彼女は眠るアヤノを見た。
それから彼に視線を戻した。
「今のあなたは、約束じゃなく、正直さを女に差し出したあとでここに座っている。そして彼女にとっては、その正直さの方が約束より重かった。……そういうあなたが、距離にとってどれほど危ういか、自分でも分かっているはずよ。自分自身の痛みとさえ、もう外側に立てないんだから。私なんて、なおさらでしょう」
彼はゆっくり息を吐いた。
「その通りだ」
ネリッサはさらに近づき、そして、彼に触れる前に、ほんのわずかな時間だけ待った。
彼が身を引くための時間だった。
彼は、引かなかった。
だから彼女は、指先で彼の顔に触れた。
とても軽く。ほとんど重さもないほどに。
けれど、そこには中立のふりなど一切なかった。
それは、異なるものが人を観察するための接触ではなかった。
自分の執着をずっと彼より深く知っていた者が、ようやくそれを隠さずに触れる、その手だった。
「私はもう、あなたにとって、声だけのものでも、影でも、世界の隙間にある気配でもいたくない」
彼女は言った。
「そして、あなたにも、それをまた抽象にしないでほしい。少なくとも、今は」
彼はその指先に、自分の手を重ねた。
ネリッサはそれだけで、わずかに硬直した。
アヤノのときと同じだった。
触れられた強さのせいではない。
その触れ方が、そのまま承認になってしまったからだ。
「もう、していない」
彼は言った。
ネリッサは、自分の手の上に重ねられた彼の手を、長く見つめた。
その単純な動きの中に、自分が認めたくもないほど長く求めていたものが、全部入っているかのように。
「なら、もう一度、手放さないで」
彼女は囁いた。
彼は、眠るアヤノを見た。
それから、またネリッサを見た。
そして初めて、その二つの視線のあいだに何の断絶も感じなかった。
ただ複雑さだけがあった。
ただ真実だけがあった。
もうそれを、きれいに別々の棚へ戻しておくことなどできないのだという、その事実だけが。
ネリッサも、それを見た。
そして笑った。
軽くもなく、勝ち誇ってもいない、ほとんど痛いほど正直な笑みだった。
居場所ではなく、いちばん深いところへ入ることを、ようやく許された者の笑みだった。




