第一章
それは夜に始まったのではなかった。
寝台の上でもなかった。
もっと悪い。
それは昼に始まった。ほとんど静まり返った時間の中で、あまりにも普通に。
彼は本の前に座っていたが、もう何分も同じ一頁を読めずにいた。リラは窓辺で身体を丸めて眠っていたし、カイラは下で鍛冶屋と何か言い合っていた。声の調子だけで、言い争っているのが彼ではなく彼女のほうだと分かった。部屋には、何ひとつ今すぐ動かす必要のない、あの独特の間が満ちていた。世界がようやく、毎分ごとに引き裂かれるのをやめることを覚えたような、そんな静けさだった。だからこそ、彼女の足音はすぐに分かった。
アヤノは荒々しく入ってきたわけではなかった。
ただ、入ってきた。
だが、部屋の中央で立ち止まったその姿には、何一ついつも通りのものがなかった。いつもの張りつめた整い方もなければ、ここ数週間ずっと彼女を支えていた、まっすぐで痛々しいほどの決意もなかった。今の彼女の中にあるのは別のものだった。小さくなったのではない。逆だ。内側に収まりきらなくなった、あまりにも大きすぎる何かだった。
彼は顔を上げた。
そしてすぐに悟った。これは先送りにできる話ではない。
彼女は立っていた。自分の中で、もう行けるところまで行って帰ってきた者のような目で彼を見ていた。そこには、この一点以外にもう何も残っていないような切迫があった。顔そのものは静かだった。静かすぎるほどに。けれど、呼吸だけが乱れていた。強く握られた拳の指先だけが、もう押し込められず、外へ裂けようとしている緊張を物語っていた。
「アヤノ」
彼が低く呼ぶと、彼女は苛立ったように首を振った。
「やめて」
彼は動かなかった。
彼女もまた。
数秒のあいだ、二人はただ見つめ合っていた。その動かぬ時間の中には、どんな叫びよりも強い緊張があった。やがて彼女が一歩前へ出る。
もう一歩。
すぐ近くで止まった。
「優しく話しかけないで」
そう言った彼女の声は低く、乾いていた。長いあいだ内側で言葉を焼きつづけてきた者の声だった。
「今だけは、絶対に。もう耐えられないから」
彼は黙って見ていた。
彼女は短く息を吸い込んだ。その吸気とともに、彼女の中の何かがとうとう切れた。
「もう無理」
彼女は言った。もう平坦ではなかった。もう少しで憎悪に届きそうな声だった。彼に対してでも、誰かに対してでもない。ただ、自分が突き当たっている限界そのものに対する憎悪だった。
「聞こえてる? 無理なの。もう嫌。もうこれ以上、我慢なんかしない」
リラはすぐには起きなかったが、身を起こして肘をつくと、何も言わずにアヤノを見た。注意深く、張りつめた目で。カイラがそこにいなくても、部屋はもう十分に狭くなっていた。
アヤノは彼以外の誰も見ていないようだった。
「待つのはもううんざり」
彼女は言った。
「ちゃんとしてるのにも疲れた。顔を作るのにも疲れた。あなたの視線や、あなたの手や、あなたの我慢や、あのいつだって――本当に腹が立つくらい――制御されたままの態度で足りるふりをするのにも、もう疲れた」
最後の言葉を、彼女はほとんど吐き捨てた。
彼はゆっくり立ち上がった。
だが、近づきはしなかった。
そのことが、かえって彼女をさらに激しく逆なでしたらしかった。
「そんなふうに見るな」
彼女は吐き出した。
「今から壊れそうな人間を、丁寧にばらして、傷つけないようにしようとする目で見ないで。私はそんなものを求めて来たんじゃない」
彼女はさらに一歩踏み込み、自分から彼の胸元の服を掴んだ。
引き寄せるためではない。
逃がさないためだった。
彼がいつもの沈黙へ逃げ込まないように。
「私を犯して」
彼女は真正面からそう言った。まっすぐ彼の顔を見上げながら。そのあまりの直截さのせいで、部屋の空気が冷えたように思えた。
「容赦しないで。導かないで。いつもの段階に分けないで。ただ、私をめちゃくちゃにして」
リラがわずかに緊張した。だが口は挟まなかった。
彼はアヤノが掴んでいる自分の服を見下ろし、それからまた彼女の目を見た。
「今お前が言ってるのは、ただの情事の話じゃない」
彼女は笑った。
短く。
鋭く。
楽しいからではなく、もう燃やすものが最後の一つしか残っていない時にだけ出る笑いだった。
「当たり前でしょ」
彼女は言った。
「情事の話なんかしてない。私は、もう空っぽのままでいたくないって言ってるの」
その言葉は鈍く響いた。
そしてその一言のあと、部屋は完全に静まり返った。
彼女は彼の胸元から手を離し、突然、自分の腹を掌で打った。強くではない。だが鋭く、荒々しく。まるで自分の身体が沈黙していることそのものを憎んでいるように。
「ここに何もない」
彼女は言った。
「分かる? 何も。私は生きてる。息をしてる。あなたたちのそばで眠ってる。剣を握ってる。血が身体の中を駆けてるのも感じる。ようやくこの呪われた身体が目を覚ましたことも、欲しがることも、欲しがれるようになったことも、もう死んでないことも、全部分かってる。なのに、ここには何もない」
声が裂けた。
彼女は唾を飲み込んだ。だがもう、さっきまでの硬さは取り戻せなかった。
「自然にそうなるのを待ちたくない」
彼女は低く言った。
「期待したくない。忍耐強くもなりたくない。賢くなんかなりたくない。強くもなりたくない。もう終わり」
リラがゆっくりと寝台の上に座った。だがやはり黙っていた。
アヤノは振り向きもしなかった。
「子供が欲しい」
彼女は言った。
告白ではなかった。
宣告だった。
もう引き返せないものとしての言葉だった。
「後じゃなくていい。都合のいい時じゃなくていい。あなたが全部計算し終えた後じゃなくていい。世界がもっと安全になってからじゃなくていい。あなたの中で、これが正しい形に整理されてからじゃなくていい。今。今すぐ」
彼はぴくりとも動かなかった。
すると彼女は自分から彼にぴたりと身体を寄せた。ほとんどぶつかるように。
「汚い言い方で言えばいい?」
彼女は問いかけた。
「いいよ、言う。私を抱いて。まるでこの先なんてもう存在しないみたいに。優しいままでいないで。慎重でいないで。何もかも理解してるからこそ、いつも自分を止めてる、その理性的な最低野郎のままでいないで」
彼女の声は震えていた。
弱さからではない。
真実があまりにも多すぎたからだ。
「必要なら、これを暴力って呼んでもいい」
彼女は言った。
「あなたで、私の中を全部引き裂いてくれてもいい。もしその先に、やっとこの飢え以外の何かが私の中に残るなら。私の誇りも、我慢も、きれいな顔も、聖女みたいな構えも、ずっと私を支えてきた全部を、まとめて壊してもいい。だから――子供をちょうだい」
リラが鋭く息を呑んだ。
彼は一度だけそちらを見たが、リラは小さく首を振った。それは制止ではなかった。そう、これは本気で言われている、という確認だった。
アヤノもそれを感じ取ったらしい。
「私を救おうとしないで」
彼女は言った。
「言い換えようとしないで。今ここで、意味の話にしないで。自分で何を言ってるか分かってる。どう聞こえるかも分かってる。みっともないのも分かってる。汚いのも分かってる。それでもいい」
彼女はもう一度、自分の腹に手を当てた。今度はゆっくりと、ほとんど慈しむように。その仕草のせいで、かえっていっそう凄惨に見えた。
「満たされたい」
彼女は言った。
「ただ隣にいるだけの人でいたくない。生が続いていく側になりたい。比喩じゃなくて。綺麗な言葉じゃなくて。あなたの理屈の中でじゃなくて。身体で。血で。肉で。私の中で」
彼はようやく彼女のすぐ前まで来た。
抱き寄せはしなかった。
ただ、ほとんど隙間がなくなるほど近くに立っただけだった。
彼女は顔を上げた。
その目には、もう怒りだけではないものがあった。痛ましいほど開かれた、何からも逃げられない裸の願い。理屈にも、優しさにも、もう隠れられないほどの。
「もう一度言え」
彼は静かに言った。
彼女は目を逸らさなかった。
「子供をちょうだい」
彼は待った。
彼女は意味を理解した。
喉がひきつるように息を吸う。
「私を抱いて、子供をちょうだい」
声がひび割れた。
「私はもう、この願いの縁で生きていたくない。強いふりなんかしたくない。これを噛み殺して、自分の喉を自分で引き裂いてるみたいな生き方はもう嫌。あなたにしてほしい。私に。私の中で。最後まで」
彼は手を上げて、彼女の頬に触れた。
彼女は、打たれたみたいに震えた。
痛かったからではない。
ここまでの言葉を吐き切った後で、その触れ方があまりにも人間的だったから。
そしてその瞬間、彼女はとうとう崩れた。
取り乱して泣き喚いたわけではない。
もっとひどかった。
涙が、勝手に落ちた。しゃくり上げもなく、顔を歪めることもなく、隠そうとすることもなく。彼女は彼をまっすぐ見たまま泣いていた。それは弱さからの涙ではなかった。ここまで耐えてきたものの重さと、これ以上は耐えられないという事実とが、あまりにも釣り合わなくなった時にだけ流れる涙だった。
「私はあなたたちが羨ましい」
彼女はほとんど聞こえない声で言った。
リラが固まった。
アヤノは振り向かなかった。
「羨ましい」
彼女は、今度は少し強く言った。リラに向かって。だが視線は彼から外さないまま。
「あなたたちの軽さが。欲しいって言えることが。伸ばした手をそのまま伸ばせることが。笑えることが。眠れることが。生きていけることが。私はずっと、崖の前に立ってるのに、ただの床みたいな顔をしてきただけ」
リラはゆっくりと近づいた。だが何も言わなかった。
アヤノは歯を食いしばった。
「もう羨ましがるだけなのは嫌」
彼女は言った。
「見てるだけで、分かってるだけで、耐えてるだけで、足りるふりをするのはもう嫌。足りない。聞こえる? 全然足りない」
彼は親指で、濡れた彼女の頬をなぞった。
彼女は目を閉じた。
「これが欲しいなら、私が恥をさらすしかないなら、それでいい」
彼女は言った。
「縋るしかないなら縋る。口にできる一番汚い言葉で頼めっていうなら、全部言う。だからもう、これと二人きりにしないで」
彼女はかすれるような声で、最後に言った。
「私の中がもう空じゃなくなるようにして」
リラが彼女のすぐ後ろに立った。押さえつけるためではない。ただ両手を彼女の肩に置いた。
アヤノはその触れ方に、ほんの一瞬だけ目を閉じた。その顔には、ほとんど子供みたいなものが一瞬だけ浮かんだ。無邪気さではない。自分の抵抗に疲れ果てた者だけが見せる、限界まで摩耗した安堵だった。
彼は長く彼女を見ていた。
長すぎるほどに。
まるでまだ全部を理解しきれていない人間みたいに。
やがて、彼は言った。
「お前が今、投げつけるみたいに口にしている形にはならない」
彼女は震えた。
だが、引かなかった。
「どうでもいい」
彼女は囁いた。
「いや」
彼は言った。
「どうでもよくない。どうでもいいなら、ここに来る前に、とっくに自分で自分を壊し続けていたはずだ」
彼女は何か言い返そうとして、できなかった。
彼は、まだ彼女が腹に当てていた手の上に、自分の手を重ねた。
「ちゃんと聞いた」
彼は言った。
「最後まで」
その言葉で、彼女はようやく怒りだけで立っている状態をやめた。
肩が落ちる。
呼吸が乱れる。
唇がわずかに震える。
彼女は短く、一度だけうなずいた。
それは、先ほどまで吐き出していたどんな露悪的な言葉よりも深い降伏だった。
彼に対してではない。
もう小さく名づけることも、誤魔化すこともできなくなった、自分自身の願いに対しての。
彼は彼女を引き寄せた。
彼女はすぐには抱き返さなかった。
まず、倒れ込むみたいに全身で彼にぶつかった。
それからようやく、彼の背に腕を回した。鋭く、必死に、ほとんど乱暴に。
リラはすぐそばにいた。彼女の髪に、肩に、首筋に触れながら。まるで、そう、もうここまで来たのだと、もう言葉は戻らないのだと、静かに確かめるように。
アヤノは彼の胸元に顔を埋め、ほとんど声とも呼べないほど小さく囁いた。
「本当に、もう無理なの」
今度、彼は言葉では答えなかった。
ただ、もう少し強く彼女を抱きしめた。




