☆82かいめ☆ 湯煙の果てに輝く果実の聖杯
館内の休憩スペースは、家族連れや風呂上がりの客たちでワイワイと賑わっていた。
着替えを終えて髪を乾かし、やや赤みを帯びたぽかぽか顔でそこにやってきたラビリスとヒナ。
「……まだ上がっておらぬのではないか?」
広いスペースをキョロキョロと見回しながら、ラビリスが首を傾げる。
「さすがにアタシらより遅いってことはないと思うけど…………あ、いた!」
おでこに手をかざして見渡していたヒナが、壁際のエリアを指差して声を上げた。
二人がゆっくりとそこへと向かって行く。
「お待たせー!……って、めっちゃくつろいでんじゃん」
ヒナは呆れたようなジト目で、マッサージチェアの奥深くに溶け切っているコンビニ店長の顔を見下ろした。
「んあ?」
間抜けな声を漏らし、大地がゆっくりと目を開ける。
リクライニングを限界まで倒し、全身を揉みほぐされながら放心状態になっていた彼は、目の前に立つ二人の姿を見て「おぉ」と体を起こした。
「やっと上がってきたか……ってか、遅ぇよ。こっちはもう喉がカラカラで死にそうだっつーの」
文句を言いながらマッサージチェアを停止させ、よっこらせと立ち上がる大地。
「いやいや、そんなんアタシたちのせいじゃないし!ってか、喉渇いてんなら先に何か飲んどけばよかったじゃん」
「……飲んでたら飲んでたでどうせ文句言ってたろ?」
「え、なんでわかんの?」
「やっぱりかよ……」と、呆れ顔でため息をこぼす大地。
しかし、そんな話はどうでもいいとばかりに、隣のマッサージチェアからスッと立ち上がった男が口を開いた。
「お疲れ様です、ラビリスちゃん」
「え?あ、あぁ……うむ」
突然声をかけられ、ラビリスは少し面食らいながらも頷く。
「長時間の入浴でさぞ喉が渇いたことでしょう。そちらの売店で何か飲み物でも買いに行きませんか?」
「ふむ、メガネよ。そなたの気遣い、褒めて遣わすぞ」
ラビリスは偉そうに腕を組み、満足げにコクリと頷いた。
その様子に、限界紳士としての至福の時を確信し、蓮は完璧なエスコートを完遂しようとした。
「ありがとうございます。それでは、フルーツ牛乳とコーヒー――」
「余は酷く喉が渇いておる故、シュワシュワと刺激的な『コーラ』を所望する」
「コ……ッ!!?」
自分の完璧なシナリオから完全に外れた『答え』を提示してきた魔王の娘を前に、蓮は目を見開き、驚愕の表情でその場に立ち尽くした。
普段の鉄面皮とも言える涼しげな顔からは、およそ想像すらできないほどの見事な間抜け面である。
「ぶははははっ!!なんだその顔!?お前、そんな顔できんのかよ!!」
「え!?ガチじゃん!!あはははは!!蓮パイ、マジで見たことない顔してんだけど!!」
完全にフリーズした蓮を指差しながら、腹を抱えて涙を流すコンビニ店長とJK。
休憩スペースに響き渡る二人の大爆笑をよそに、当のラビリスだけは「む?何かおかしなことでも言うたか……?」と、不思議そうに首を傾げているのだった。
――数分後。
「はぁ〜……っ。マジ今日だけで1年分ぐらい笑ってるわ」
目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、ヒナがラビリスへと振り向く。
「ラビちゃん、コーラもめっちゃ美味しいんだけどさ、やっぱ銭湯は牛乳っしょ」
「ふむ。先ほどもそんなことを言うておったな。しかし、牛乳なぞ珍しくもなんともない、ただの牛の乳であろう?わざわざ風呂上がりに飲むような特別なものか?」
「いやいや。俺も冷えたビールといきてぇとこだけど、銭湯上がりってのはビン牛乳が『通』って感じがあんだよ。あと今日は車だし。……まぁ、つっても俺は普通の牛乳飲めねぇからコーヒー牛乳だけどな」
「ほぅ?」
『通』という魅惑の響きに、魔王の娘の耳がピクリと反応した。
「ふん。そなたらがそこまで言うのであれば仕方あるまい。ならば余も、その『通』の嗜みとやらを一つ試してやるとするか」
まるで「民の文化に歩み寄ってやる」ような偉そうな態度をとりつつも、その実、単に興味を惹かれているだけのラビリスがコクリと頷いた。
「おい、メガネ」
「――承知いたしました。こちらへどうぞ」
ラビリスが振り返って声をかけると、先ほどまで真っ白な燃えカスになっていたはずの蓮が、いつの間にか元の色彩を取り戻し、背筋をピンと伸ばして待機していた。
一切のダメージを感じさせない完璧な所作でエスコートを再開する彼に、大地とヒナは呆れ半分で苦笑いしながらついていく。
売店の冷蔵ケースの前に到着すると、蓮が恭しく問いかけた。
「では、ラビリスちゃん。フルーツ牛乳とコーヒー牛乳、それと普通の牛乳もありますが、どれをお飲みになりますか?」
「……ふむ。普通の牛乳は学校で飲んでおる故、残り二つのどちらかじゃな。メガネよ、何かオススメはあるか?」
「どちらを選ばれたとしても最高に尊……コホン。そうですね……」
うっかり限界紳士の本音が漏れかけるのを咳払いでごまかし、蓮はあごに手を当てて真剣な表情で熟考を始める。
「……どちらも甘くて美味しいことは保証しますが、大きく違うのは『香り』です。その日の気分や、香りの好みでお選びいただくのがよろしいかと」
「ほぅ、香りか。フルーツの方はなんとなく想像がつくが……その『こーひー』とはなんじゃ?」
初めて聞く単語に、ラビリスは不思議そうに腕を組んだ。
「コーヒーというのは、コーヒー豆を焙煎し、それを砕いた粉末からお湯や水で成分を抽出した飲料です。世界中で愛されている代表的な嗜好飲料であり、その豊かな香りと特有の苦味が特徴でして――」
蓮はメガネをスッと押し上げながら、まるで辞書を丸暗記してきたかのようにスラスラと解説を始めた。
「???」
案の定、処理が追いつかずにラビリスの頭上には無数のハテナが量産されている。
「……ちょ、蓮パイ。それだとラビちゃんゼッタイわかんないから!」
「お前、マジでそういうとこだぞ……?」
ヒナの的確なツッコミに続き、大地も呆れたように深くため息をつく。
そして、頭から煙を上げている魔王の娘へと視線を下ろした。
「いいかラビリス。コーヒーってのは、要は『苦みのある飲み物』だ。つっても、コーヒー牛乳に苦みはほとんどないから安心しろ。香りは……なんだろ、ちょっと言葉じゃ説明できねぇな」
「ふむ……苦みがあるのに甘い。『チョコレート』の縁者か何かか……?」
未知の飲み物の正体を推測し、首を捻るラビリス。
すると、ヒナがポンッと手を打った。
「それじゃ、アタシがコーヒー牛乳にするから、ラビちゃんはフルーツ牛乳にしてシェアしよ?」
「シェア?」
またしても聞き慣れない単語に首を傾げる少女に、ヒナは明るく笑いかけた。
「分けっこするってこと!それなら、もしコーヒーの匂いが苦手でも安心っしょ?」
ラビリスがヒナの提案にコクリと頷くと、「ここは私が……」と蓮が流れるような所作でスマートに会計を済ませる。
そして、ラビリスの小さな両手に、キンキンに冷えたフルーツ牛乳が恭しく手渡された。
「おぉ。これはまた精巧なガラスの容器じゃな」
ひんやりと冷たい水滴がついた表面を珍しそうに指でなぞりながら、ラビリスが感嘆の声を漏らす。
異世界から来た彼女の瞳には、中に入っている色鮮やかなフルーツ牛乳はもちろん、それが入っているガラスビンもまた、職人が作り上げた美しい工芸品のように映っていた。
「よし。開けてやるからちょっと貸せ」
「む?」
大地はラビリスからビンをヒョイと預かると、慣れた手つきで透明なフィルムを剥がし、紙の蓋をポンッと外して、再び彼女へと手渡した。
全員に飲み物が行き渡り、一斉に乾杯するのかと思いきや、ラビリス以外の三人は微動だにせず彼女の顔をじっと見つめていた。
どうやら、初めて風呂上がりのフルーツ牛乳を体験する魔王の娘が一体どんなリアクションを見せるのか――三者三様に気になって仕方がないらしい。
「な、なんじゃ?皆して余の顔をじっと見つめおって……」
「え?あぁいや。気にせずにとりあえず飲んでみろって」
「う、うむ……」
三人の無言のプレッシャーに、ラビリスはなんだかバツが悪そうにしながらも、両手でしっかりとガラスビンを持ち上げた。
その小さな動きに合わせて、コンビニメンバーズ(特にメガネをかけた限界紳士)がゴクリと固唾を飲む。
んぐ、んぐ……。
小さな喉が鳴るたびに、ビンの中身がゆっくりと減っていく。
そのあまりにも尊い『牛乳ビンを両手持ちして中身を飲む推し』という神々しい光景を前に、蓮の瞳からはツー……と一筋の美しい涙がこぼれ落ちていた。
もはや限界紳士としてのキャパシティを完全に超え、ただの浄化されたオタクと化している。
やがて、「ぷはぁ……っ」と小さな吐息を漏らし、ラビリスがゆっくりとビンを下ろした。
「ど、どうだ……?」
大地が代表して、静かに問いかける。
ラビリスは手に持ったビンを見つめると、ぷるぷると震えながら顔を輝かせた。
「な、なんじゃこれは……っ!?果実の香りと甘みと酸味が、乳のまろやかさと見事に調和されておる!それが風呂上りの火照った体に優しく沁み込んでいくようじゃ!言うなればこれは、液状化された『天国』……!!」
興奮気味に語りながら、ラビリスはビンの飲み口を不思議そうに指でなぞった。
「それに……このガラスの容器!口に触れた時のひんやりとした滑らかさが、この飲み物の味わいをより一層引き立てておる!この口当たりすらも美味いと感じるぞ!まさか、そこまで計算され尽くされておるのか……!?」
完璧すぎる食レポであった。
「あはは!ビンの口当たりまで!相変わらず語彙力ヤバすぎるし!」
ヒナが手を叩いて笑う。
「いや、でも確かに紙パックとかで飲むより、ビンで飲む方が美味く感じるんだよな」
「……ええ。本当に……計算し尽くされた美しさです……」
「お前は絶対別のこと言ってんだろ」
呆れたように蓮へツッコミを入れる大地の口元には、自然と柔らかな笑みが浮かんでいるのだった。




