☆80かいめ☆ 夜空に溶ける優しい風と安らぎの吐息
「ヒナよ、すべて洗い終わったぞ……」
「オッケー!アタシももう終わるからちょい待ってね!」
シャワーで勢いよく体を流すヒナを横目に、ラビリスは目の前の白く曇った鏡を小さな手でキュッキュッと拭った。
水滴が滴る鏡の中に映るのは、先ほどのダメージでほんの少しだけ目を赤くした魔王の娘の姿。
その後ろ髪は、ヒナが持参していた大きめのバンスクリップを使って、器用にハーフアップにまとめられている。
(ふむ。悪くない)
いつもとは少し違う自分の姿にまんざらでもない様子で、彼女は鏡に向かって小さくポーズをとってみる。
「お待たせ!じゃあ早速、露天風呂に行ってみよっか!」
洗面器を片付けたヒナが、元気よく立ち上がって声をかけた。
その言葉に、ラビリスの肩がピクリと跳ねる。
「う、うむ……」
いよいよ、全裸のまま未知なる外の世界へと放り出される時が来てしまった。
ラビリスは、小さなフェイスタオルを盾のようにギュッと胸に抱きしめ、決死の覚悟を固めてゴクリと喉を鳴らした。
洗い場を抜け、ペタペタとヒナの後ろをついて行くと、すぐに外へと通じるガラス張りのドアに辿り着いた。
外の景色は湯気で曇ってよく見えないが、微かに水の流れる音が聞こえてくる。
タオルをギュッと握り直す不安げな少女に、ヒナは振り返ってニコッと笑いかけた。
「そんなキンチョーしなくても大丈夫だって!ガチでラビちゃんも気に入ると思うから!」
「本当じゃろうな……。一歩踏み出した途端、落とし穴があるとか、空から氷が降ってくるとかはないのじゃろうな……?」
「ないない!ほら、おいで」
ヒナはゆっくりと重いガラスドアを開け、ラビリスに先へ進むように優しく促した。
隙間から外の空気がスッと流れ込んでくる。
(余は魔王の娘……!何も恐れるものなどないはずじゃ!)
魔王の娘としての誇りを胸に、ラビリスは目をギュッと瞑り、意を決して恐る恐る外の世界へと足を踏み出した。
晒し物からの火あぶりか、はたまた氷点下の吹雪か。
どんな責め苦が来ようとも耐えてみせると、全身を強張らせていた――その瞬間。
ふわっ。
「……む?」
予想に反して、ラビリスの火照った体を撫でていったのは、凍えるような吹雪でも、身を焼き尽くす業火でもなかった。
それは、お湯の温もりを微かに孕んだ、どこまでも柔らかく心地よい『優しい風』だった。
想定外の優しい出迎えに、ラビリスはきつく閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
ふわりと視界が広がる。
まず上を見上げると、そこには満天の星空――は、街の明かりのせいで残念ながら見えなかったが、代わりに、澄んだ夜空に綺麗な三日月がぽつりと浮かび上がっていた。
「……あ」
そのまま視線を下へと移した彼女の目に映ったのは、岩や緑で美しく整えられた空間に、ゆったりと湯気を立ち上らせるいくつもの広い浴槽だった。
そこには、責め苦に耐える者など一人もいない。
たくさんの人間たちが広々とした湯舟の中で穏やかに談笑したり、ベンチに腰掛けて心地よい夜風に吹かれたりと、誰もが思い思いの休息の時間を過ごしている。
それは、先ほどまでラビリスが抱いていた疑念をほんの一瞬で吹き飛ばしてしまうほど、あまりにも平和で、どこか幻想的な光景だった。
「こ、これは……」
想像していたものとのあまりの落差と、露天風呂特有の開放感にすっかり圧倒され、ラビリスは入り口で呆然と立ち尽くした。
「ね?全然怖くないっしょ?」
そんな魔王の娘の隣にヒナがスッと並び立ち、どうだと言わんばかりに得意げな笑顔を見せるのだった。
露天風呂の平和な光景にすっかり毒気を抜かれたラビリスは、鋭い視線でぐるりと周囲を見渡したあと、こくりと頷いた。
「ふむ。そなたの言うておった通り、外部から見えぬ設計になっておるし、怪しげな罠も仕掛けられておらぬ。確かに危険はなさそうじゃ」
「っしょ?これでやっと安心してお風呂に入れそ?」
「ふん。それはこれからの視察次第じゃ。……して、ここには湯舟がいくつもあるようじゃが、まずはどれから攻めるのがよいのじゃ?」
タオルを胸に抱きながら、ラビリスは期待と好奇心を隠しきれない様子でヒナを見上げる。
「ん〜。基本的には好きなのから入ればいいんだけど……あ、んじゃとりあえず一番オーソドックスなアレに入ろっか!」
ヒナが指差したのは、無骨な岩でぐるりと囲まれた一番大きな浴槽だった。
「ふむ。いかにも『外の風呂』といった風情じゃな。よかろう、まずはあれから視察してやるとするか」
未知の外のお風呂への興味をそそられたラビリスは、先陣を切るようにペタペタと岩風呂へと向かって歩き出した。
一方、男湯。
露天風呂を存分に堪能し、湯舟から上がった男二人は、タオルで体を拭きながら夜風に当たっていた。
「はぁ〜。いい湯だったなぁ」
「ええ。余興としては十分な満足感でした」
大きく伸びをした大地に対し、蓮が曇ったメガネを指でスッと押し上げながら真顔で頷く。
「は?余興……って。おい、まさか……」
「もちろんです。風呂などただの前座に過ぎません」
「いや、うん。確かに心の中だけで完結してて実害はないけどさ……普通にキモいんだが。っつか風呂屋に来て風呂が余興って、風呂屋が聞いたら泣くぞ」
ドン引きする大地をよそに、蓮は涼しい顔でタオルを肩にかけた。
「……とは言え、ことあるごとにキモいと言われ続けるのも癪ですから、店長の認識を改めるべく、ここで一つ知的な小話をしましょうか」
「なんだよ?」
「先ほど店長もやっていましたが……湯舟に深く浸かった時、『はぁ〜』と声が出るのはなぜか知っていますか?」
「え、単純に気持ちいいからじゃないの?……なんつーか、リラックスして勝手に声出るし」
大地の至極まっとうな回答に、蓮は「チッチッチ」と人差し指を振った。
「違います。……実はお湯に浸かると、水圧によって体が一気に圧迫されます。それをそのままにしておくと血圧が急上昇したりと、心臓や体に大きな負担がかかってしまうんです。そこで、体は防衛本能として自然と『息を深く吐き出すことで、体内の圧力を外に逃がそうとしている』んですよ」
「へぇ〜!単なるおっさん臭いリアクションじゃなくて、ちゃんとしたメカニズムがあるんだな……」
予想以上にタメになる入浴の豆知識に、大地は感心して何度も頷いた。
しかし、ふと冷静になって隣の男を見る。
「……てかお前、なんでそんなこと知ってんの?」
「一人の紳士としての、当然の嗜みですよ」
「…………あんま人生で役に立ちそうにねぇな、その嗜み」
知識の無駄遣いをしてキリッとドヤ顔をキメるアルバイトに、大地は呆れ交じりのため息をつくのだった。
そして女湯では……。
「あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁ〜〜〜……っ」
魔王の娘の口から、まるで激務を終えた熟練のサラリーマンのような、深く、そしてあまりにも見事なため息が漏れ出した。
「……ラビちゃん、めっちゃおっさんみたいな声出てるよ?」
「し、失敬な!決して気が緩んだわけではないぞ!湯に浸かった途端、なぜか急に体から声が出てしもうただけじゃっ!」
顔を真っ赤にして抗議するラビリスの弁解は、図らずも壁を隔てた限界紳士のウンチクを見事に立証する形となった。
お腹を抱えて笑うヒナの明るい声が、露天風呂を包む夜空へと心地よく吸い込まれていくのだった。




