☆79かいめ☆ 大浴場に響く魔王の娘の断末魔
シャワーコーナーの椅子にちょこんと座り、曇ったガラスを小さな手で拭くラビリス。
すると――。
「ラビちゃん、お待たせっ!」
入り口の棚に置いていた入浴セットを取りに行っていたヒナが、その小さな背中に声をかけた。
「うむ。ご苦労であった」
ヒナが隣の椅子に座るのを確認すると、鏡から手を放して偉そうに頷く魔王の娘。
「えーっと……店長から預かってきたのは、これと、これと……」
ヒナは持参したスパバッグの中から、ラビリス用の小さなボトル類を順番に取り出していく。
そして、そのうちの1つのラベルを見た瞬間、ヒナは目を丸くした。
「って、え!?ラビちゃん、めっちゃいいシャンプー使ってんじゃん!」
「む、そうなのか?パパが用意したもの故、余にはよくわからぬが……」
キョトンと首を傾げるラビリスに、ヒナは興奮気味にボトルを見せる。
「これ、お取り寄せのめっちゃいいやつだよ!アタシも買うか悩んだんだよねー」
「ほほぅ。確かに以前に比べ、髪の指通りが良くなっておる気がしておったわ」
「へぇ〜、店長そういうとこあるんだ……なんか意外」
普段はそういうことに無頓着な大地が、実はラビリスの髪の毛のために、こっそりお高めのシャンプーを買い与えていたという事実。
その見事な親バカっぷり――もとい、過保護でマメな一面を垣間見て、ヒナは「愛されてんね〜」とクスクス笑いながらボトルを眺めた。
「んじゃ、先に頭洗っちゃおっか!髪の毛ほどいてあげるね」
ヒナは後ろに回り込むと、慣れた手つきで先ほど綺麗にまとめたお団子をするするとほどいていく。
背中までさらりと落ちた銀色の髪は、シャンプーの賜物か、すでにシルクのように滑らかだった。
「ふむ……ところでヒナよ。これはどうやって上から湯を出せばよいのじゃ?いつもはレバーを倒すと湯が雨のように降り注ぐのじゃが、先ほどからこれを倒しても、下からしか湯が出ぬのじゃ」
カランからジャーッとお湯を出しっぱなしにしながら、ラビリスが不思議そうに首を傾げる。
「あ、ここのシャワーはこっちのボタンを押すんだよ」
ヒナが手を伸ばし、水栓の上部についている丸いボタンを「カチャッ」と押し込んだ。
すると、頭上のシャワーヘッドから勢いよく温かいお湯が降り注ぎ始めた。
「ほぅ、なるほど。ここを押すのじゃな」
仕組みを理解し、感心したように頷いたラビリスは、さっそく頭をシャワーの方へと向けた。
しかし、数秒後――。
スゥゥゥ……ピタッ。
「む?」
急にシャワーの勢いが弱まり、すぐにお湯が止まってしまった。
「おい、止まってしまったぞ。余はまだ洗っておらぬというに」
「あぁ、これねー、出しっぱなしにならないように勝手に止まっちゃうんだよね。ちょいめんどいけど、止まったらまたそのボタンを押したらいいよ」
「なに?勝手に止まるじゃと?」
ヒナの説明を聞き、ラビリスはシャワーのボタンをジト目で睨みつけた。
「ふむ。主である余の許可なく勝手に休憩とは、なんとも不届きな道具じゃな。おい、サボっておらんでしっかり働かぬか!」
謎の支配者目線を発揮し、ラビリスは「えいっ」と力一杯ボタンを押し込んだ。
魔王の娘の厳命(物理)を受け、シャワーは仕方ねぇなと言わんばかりに再びジャーッと勢いよくお湯を降り注がせるのだった。
一方、男湯。
過酷なサウナの我慢比べと氷のような水風呂を経て、露天スペースのベンチでバッチリ外気浴をキメていた蓮が、スッと立ち上がった。
「さて、体も無事に『ととのいました』し、私はそろそろ洗い場に行きます」
「お、そうだな。俺も体洗うわ」
女湯でラビリスが最後まで理解できなかった『ととのう』という現象を完璧に体現し、どこかスッキリした表情の蓮と大地。
大地もベンチから立ち上がり、男二人は連れ立って洗い場へと向かった。
――数分後。
「……なぁ、お前さ。頭洗う時ぐらい、その眼鏡外したら……?」
呆れ顔で備え付けのシャンプーをジャボジャボと手に取りながら、大地は隣の席で一心不乱に髪を洗っているアルバイトにツッコミを入れた。
蓮は髪がモコモコの泡まみれになっているというのに、なぜか眼鏡をしっかりとかけたままシャンプーをしていたのだ。
「それでは、鏡で隅々まで洗えているか見えなくなってしまいますので。流す直前に外します」
「そ、そうか。……ってか、わざわざ鏡で自分の頭見ながら洗ってんの?」
「ええ。洗髪において、一切の妥協は許されませんので」
泡だらけの手でスッと眼鏡のブリッジを押し上げ、蓮は鏡の中の自分を見つめてキリッと言い放つ。
「ふ〜ん」
大地は自分の頭をガシガシと洗いながら、ふと素朴な疑問を口にした。
「じゃあ、後頭部はどうやって見んの?」
「…………」
蓮の一切の妥協を許さないはずの完璧な手つきが、空中でピタリと停止した。
「…………」
「……ん?」
目の前の鏡一枚でしか見ていないのだから、後ろが見えるわけがない。
一体この男は、その論理的破綻をどうやって独自の理論で乗り越えてみせるのか。
大地が泡だらけの頭のまま、期待交じりに隣を見つめていると――。
「……そういえば店長。お風呂上がりの定番ですが、ラビリスちゃんはコーヒー牛乳とフルーツ牛乳、どちらを献上したらよりお喜びになりますかね?」
「話逸らすなよ!ってか結局後ろは見えてねぇのかよ!!」
唐突にラビリスの話題へと強引にハンドルを切った限界紳士に、大地の盛大なツッコミが大浴場にこだました。
ところ変わって、再び女湯。
「へっぷしっ!」
泡だらけの頭をこすっていたラビリスが、突然大きなくしゃみをした。
壁の向こう側で、自称『尊き存在を見守る者』に熱烈に語られていることなど知る由もない。
「だいじょぶ?早く洗ってお風呂で温まらないとね」
「ふむ。別に寒いわけではないのじゃが……」
小鼻をヒクヒクさせながら、ラビリスは再び水栓のボタンを「えいっ」と押し込んだ。
従順な配下のように、シャワーヘッドがそれに応えて勢いよく温かいお湯を降り注がせる。
ラビリスは目をギュッと固く閉じ、泡だらけの髪をゴシゴシと流し始めた。
しかし、数秒後。
スゥゥゥ……ピタッ。
「おい!まだ流し切れておらぬぞ!……おのれ、一番大事なところでサボるとは小癪な奴め!」
またしても勝手に休憩に入った怠け者を罵倒しつつ、ラビリスは目を瞑ったまま手探りでボタンを押そうと手を伸ばした。
しかし、その小さな手は空を切るばかりで、一向にボタンに届かない。
「む、どこじゃ!?ボタンはどこへ行った!?まさか余の怒りに触れるのを恐れ、職務放棄して逃げ出したのか!?」
「あはは、シャワーは逃げないってば!ラビちゃんちょっと待って!アタシもう流し終わるから!」
「ぐぬぬ……。逃げておらぬのなら、すぐ目の前におるはずじゃ!……ぬぅぅ、こうなったら仕方あるまい!」
ヒナが洗い終わるのを数秒待てばいいものを、魔王の娘としてのプライドがそれを許さなかった。
配下の逃亡を自らの手で阻止すべく、覚悟を決めたラビリスは、恐る恐るうっすらと片目を開けてしまう。
しかし――それが最も危険な行為であるのは想像に難くない。
「――ッ!?」
まぶたを開いたその一瞬の隙を突き、頭から垂れてきた中途半端に濡れたシャンプーの泡が、勢いよく彼女の無防備な目へとなだれ込んでいったのである。
「ぎにゃああぁぁっ!!目が!余の目がぁぁぁぁっ!!」
「わーっ!だから待っててって言ったのに!ラビちゃん目ぇ開けちゃダメ!今流すから!」
「あばばばばっ!痛い!痛いぞヒナ!」
「ごめんて!ほら、上向いて、上!」
大浴場のシャワーコーナーに響き渡る、魔王の娘の断末魔。
そしてそれを鎮めるかのように慌ててシャワーでお湯をかけるヒナ。
この後、ヒナにトリートメントをしてもらったのは言うまでもない。




